せない。誰も自分の足許をしっかり見ているものなどはなく、又、押し押され、おちおち佇んでもいられない。上野行の急行に乗込む時は、人間が夢中になって振り搾る腕力がどんな働をあらわすか、ひとと自分とで経験する好機会であったと云うほかない。
 列車は人と貨物を満載し、膏汗を滲ませるむし暑さに包まれながら、篠井位までは、急行らしい快速力で走った。午前二時三時となり、段々信州の高原にさしかかると、停車する駅々の雰囲気が一つ毎に、緊張の度を増して来た。在郷軍人、消防夫、警官などの姿がちらつき手に手に提灯をかざして、警備している。福井を出発する時、前日頃、軽井沢で汽車爆破を企た暴徒が数十名捕えられ、数人は逃げたと云う噂があった。旅客は皆それを聞き知ってい、中にはこと更「いよいよ危険区域に入りましたな」などと云う人さえある。
 五日の暁方四時少し過ぎ列車が丁度軽井沢から二つ手前の駅に着く前、一般の神経過敏をよく現した一つの事件が持ち上った。前から二つ目ばかりの窓際にいた一人の男がこの車の下に、何者かが隠れている。爆弾を持った〔二字伏字〕に違いないと云い出したのであった。何にしろひどいこみようで、到底席などは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用を足したのだそうだ。そして、何心なくひょいと下を覗くと、確に人間の足が、いそいで引込んだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たと云うのである。
 初め冗談だと思った皆も、其人が余り真剣なので、ひどく不安になり始めた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、全くそんな事がないとは云われない。万一事実とすれば、此処にいる数十人が、命の瀬戸際にあると云うことになる。不安が募るにつれ、非常警報器を引けと云う者まで出た。駅の構内に入る為めに、列車が暫く野っぱの真中で徐行し始めた時には、乗客は殆ど総立ちになった。何か異様が起った。今こそ危いと云う感が一同の胸を貫き、じっと場席にいたたまれなくさせたのだ。
 停車した追分駅では、消防夫が、抜刀で、列車の下を捜索した。暫く見廻って、
「いない。いない」
と云う声が列車の内外でした。それで気が緩もうとすると、前方で、突然、
「いた! いた!」
とけたたましい叫びが起った。次いで、ワーッと云う物凄い鬨声《ときのこえ》をあげ、何かを停車場の外へ追いかけ始めた。
 観
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