無限の女性の歎きと怨みとが、響いている。物狂《ものぐるい》の女主人公達は、総て何かの意味で挫折した愛情の故に狂う哀れな女人であるし、幽霊となって現われる女達は、みんなこの世では果されなかった衷心の希望に惹かれて、再びこの世にそれを訴えようとして現われた人達である。
 面白いのは、この時代の貴族的な文学であった謡曲に対して、もっと庶民的な源泉をもって創られた狂言の存在していることである。狂言は、日本のユーモアの健全さ、大らかさ、生活力を示す貴重なものである。これらの狂言の中に出現する女は、謡曲の女主人公達の悲劇的な亡霊的存在と較べて、その感性、行動がいかにも現世的であり、腕白であり、時には晴れ晴れと亭主を尻にも敷いている。狂言の行中には、いつも少し魯鈍でお人よしな殿と、頓智と狡さと精力に満ちた太郎冠者と、相当やきもちの強い、時には腕力をも揮う殿の妻君とが現われて、短い、簡明な筋の運びのうちに腹からの笑いを誘い出している。
 武家貴族の生活が婦人を愉しく又苦しい勤労から全く引き離して、しかも完全に政略の犠牲としていたのに反して、より政略の桎梏《しっこく》の少い下級武士や庶民生活の中では、女性の生活が、文盲ながら幾らか明るさ、健全さを持っていたことを、狂言は語っている。同時に当時の社会のいわゆる下層者には、支配階級に対して皮肉な大笑いをしている感情もあったという事実を示している。太郎冠者はそのチャンピオンとして登場しているのであった。
 戦国時代にこうして一旦崩れ分散した支配権力は、信長によって、或る程度まとめられた。織田信長は当時の群雄たちの中では、誰よりも早く新らしい戦術を輸入した。種子島へ来た鉄砲をどっさり買い込んで、自分の歩兵を武装させ機動的な戦争の方法を組織したのは信長であった。信長が、分裂していた支配権力を一応自分に集中することが出来たのは、彼の賢によってであった。彼がポルトガルから渡来した近代武器の威力を理解したからであった。そしてその統一に、一つの有利な条件をつけるために、京都において政権を喪い、窮乏していた天皇の一族に経済的援助を与え、旧藤原一族の権謀慾をしずめようとした。
 これは秀吉の時代にも自己の権力の利益を護るために踏襲された方法であった。政治の実権――主権を武家に確保するために、公家と武器と領地と領地の農民を背景とした僧侶の反抗の口実を防ぐために、天皇一族に対する給与ということが考えられていたのであった。
 秀吉といえば、桃山時代(西暦十六世紀)という独特な時期を文化史の上につくり出した規模壮大な一人の英雄である。そして、その感情生活も性格から来る不羈奔放さとともに、専制的な君主らしく一人よがりで気ままであったこと、伝説化されている淀君のような存在もあり、一方には千利休の娘に対する醜聞なども伝えられている。
 当時の社会では、征服した者が権力を以て征服された城主の婦人達を意の儘にするということが寧ろ当然の慣《ならわ》しであった。日本の女性史の中で淀君は我儘者の見本のように語られている。しかし、この半ば誇張された伝記の中にも、案外私共の注意すべき点がひそんでいるのではなかろうか。淀君の母親は、秀吉に敗けた柴田勝家の妻であった。お茶々と呼ばれた少女の淀君は、美貌の母と共に秀吉の捕虜となって育った。彼女の美しさは、昔秀吉が恋着した母の美しさを匂うばかりの若さのうちに髣髴《ほうふつ》させた。年齢の相異や境遇の微妙さはふきとばして、彼女を寵愛した。錦に包まれて暮しながら、お茶々といった稚い時代から、彼女の心に根強く植付けられていた「猿面」秀吉に対する軽蔑は、根深いものがあったろう。その秀吉の愛情を独占するということは、とりも直さず女性としては一つの復讐であった。淀君は殆んど分別なく我意を揮った。豊臣家の存亡ということについて、責任を負う気持がなかったのも当然である。
 悲劇と喜劇とが錯綜して、日夜運行していた大坂城の中にお菊という一人の老女があった。余程永年、豊臣家に仕えていたものらしい。ところが、このお菊がどんな生活をしていたかといえば、冬でも僅かに麻衣を重ねていたに過ぎないということが、竹越与三郎氏の日本経済史の中に一つの插話として書かれている。そうして見れば、当時最も華美とされた城の中でさえも、女主人公と使われる女達との間には、着るものから食べるもの、あらゆることに恐ろしい懸隔があったことが分る。
 徳川時代に入って封建制は確められ、士農工商の身分的区別も確立した。徳川氏の権力維持の努力とそれを繞《めぐ》る野心ある諸家の闘いは、やはり女性をさまざまの形でその仲介物とした。稗史の中でも徳川の大奥というものは伏魔殿とされた。沢山の隠れた罪悪と御殿女中の不自然な生活から来る破廉恥な行為とは、画家英一蝶に一枚の諷刺画
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