も書けない様なものがこんな事を云うのもあんまり生意気の様ではあるが、やっぱりあの頃に二葉亭四迷が「浮草」ほどの心理描写をしたものが世に出て居たとすれば、紅葉山人の終りの方の作には或る面白い変化があれば、あられたろうと思う。
 あの「青葡萄」は何となし目につく。
 事実をありのまま書かれた故でも有ろう。
 病気、殊に、恐ろしい「コレラ」と云うものに対しての恐怖、先生が病気の弟子を思う心、
 あれは立派な心理描写である。
 あれだけ鋭い神経を持って居られたのだから、勿論、恋愛を骨子として書かれたものでも、凄いするどいものがある。
 隣の女の後ろの方を読んだものが、ゾーッとするのもそれである。
 尺八上手の男が小夜に釣られて行ったあげく、女の情夫の死骸――しかも現在自分に呼び出しをかけた女の手にかかって死んだ男の死骸をかたづけさせられ様とは、そこまで行かなければ誰も思うものではない。
 只景気のいい人の顎をとかせる前題で、最も印象を深く与えるべき最後に至って、読むものの気持に、白刃の峰打ちを喰った様な感じを与えるのは、山人の感情の現れであり技巧である。
 紅葉山人と一葉女史を日露戦争後まで活かして置いたらとつくづく思う。
 両氏の才筆に、深刻な思想が加わらなかったのがいかにも物足りぬ、残念な事に感じられるのである。



底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
※1915(大正4)年1月5日執筆の習作です。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年2月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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