いくらかくつろぎながら、しかしひとりでにまたうつむいてしまう思いにとらわれて、朝子は自分たちの住んでいるホテルへの角を曲った。階段の中途で、絨毯《じゅうたん》掃除をしていた掃除女のカーチャが道をあけると、何とも云えない底に輝きのこもったような優しい、同時に心はうつろのような微笑を与えて、朝子は廊下の奥にある室のドアをあけた。
「ただいま」
左手の窓に向って机についている素子は、あっちを向いたなり、それにこたえる声を出した。朝子はのろのろした動作でベレーをぬいで入口の帽子かけにかけ、外套をぬいで同じところへかけ、自分のベッドの傍へ行ってそこへ腰をおろした。部屋は割合ひろくて、さっぱりした薄青い壁の上やあっち向きの素子の両肩のあたりに、二重窓からの少し澱んだ明るみがおどっている。一つの高い本棚を仕切りにして、朝子の机は右の窓のところにあるのであった。
「どうした!」
「ふうむ」
「いたんだろ!」
「いたわ」
ペンの速さをまして最後の行を書き終る様子が、はなれている朝子のところから見えた。
「――どうしたのさ」
やがて椅子の上で、くるりとこっちを向いた素子の棗形の顔の上に、急に拡がってゆく驚駭の表情を見ると、朝子はとりも直さずそこに自分の動乱が映っているようで何とも云えない苦しい気がした。けれども自分の顔つきをかえる力は、今の朝子にないのであった。
「どうしたのさ」
どう[#「どう」に傍点]というところに特別力をこめて云いながら、素子は何か警戒するように、離れている二人の間にある距離の助けで何かをそこからさぐり出そうとでもするように、凝っとその場を動かず、部屋の中を往ったり来たりしはじめた朝子を見守った。
やや暫くして、素子が一種の皮肉を帯びた声で、
「何か云われてでも来たんだろう」
と云った。素子も、きょう朝子が訪問した老人は知っており、きょう朝子がそこへ行ったことも知っているのであった。朝子は黙ったまま暗く複雑な光をもって自分に注がれている素子の眼の中を真直に見た。素子は、
「どうせそんなことだろうと思った!」
そして煙草に火をつけて、長く烟《けむり》をふきながら上の方を見ていたが、
「のこれって云ったんだろ?」
いくらかやさしく訊いた。朝子はうなずいた。
「そりゃ、あなたにはそう云うさ」
その語調には深く傷けられた素子の気持と自嘲とが響いた。
「
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