せたのだが、それに対して、いつの時代にも生存した特別に心情の活溌なある種の人々は、皮肉に人生のありのままを感じ観察していて、例えばイタリーのボッカチオという詩人は坊主くさくかためた天国地獄の絵図を、きわめてリアルに機智的に諷刺し、破壊しようとしている。「デカメロン」の本質はそういうものであった。
 十九世紀の目ざましい科学の進歩は、人間の幸福について、それを可能にしまた不可能にする社会の条件を考慮に入れるべきことを知らせた。これは社会的に生きる人類の幸福を問題とする現実的な幸福探求の道程にとっては、実に画期的な発展であった。人間が社会以外のところに生存しないものであるという生存の条件へのはっきりした理解は、社会と個人とのいきさつの研究の間に幸福の課題をもといてゆこうとする根本的な方向を決定したのである。
 そうきくと、私たちの心にまた別な疑問がおこって来はしまいか。そんなにはっきり幸福の具体的な解決が社会と個人とのいきさつの間に、その社会全体の進歩において見出されると分っているのなら、何故人間はさっさと万億人の希望であるその幸福をうち立ててゆくために全力をつくし合わないのだろうか、と。
 私たちが近頃目撃する現代の世界の状態は、人間にそういう幸福への共通な希望と解決の方向がわかっているにしては、まるで逆を行っているように思える。その逆もあんまり逆だといいたいほどでさえある。人類の誇りである智慧さえ、玲瓏無垢な幸福をつくるために役立てられるというより、死力をつくして黒煙を噴き出し火熱をやきつかせるために駆使されているようではないか。
 目前の凄じい有様にきもをひやされて、人々はこれらの現実の中に幸福はないと結論し、その結論を更にひろめて、社会と個人のいきさつを、社会全体の進歩の中に見てそこに幸福をうち立ててゆくというような考えかたの方向は、現実に即していないという気持になり勝ちである。そして、自分にとって一番つかみやすい、一番たやすい、今日の自分だけの暮しの現実を小さく肯定するに一番便利ななにかの手がかりとなる観念に幸福というものの内容をゆだねて、それで簡単にかためてしまい勝ちである。世のなかの複雑な動きのあやから眼をはなさず、そのあやに織り込まれている自分の一生の意味を理解するところにいいつくせない面白さをも見出して生きて行こうとはせず、動的な現象事象から離れたどこ
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