る歴史の根拠は、そのような意味で架空なものではないのだが、さて、幸福というものを私たちはどう考えあるいは感じているのだろう。
折々座談会などでそういう話題になったとき一番困惑するのは、現代の人間はまだ幸福というものをきわめて固定したものとして扱っているという点である。特に女のひとは、どういうものか幸福、不幸という二つの漠然とした、しかも抜くことのできない観念を心のどこかに植えつけられている。そして、不幸になるまいと絶えず警戒しつつ、本体が何かということは自分の心にもはっきり感じられていない幸福を追っているように見える。
幸福というものを固定した観念で鋳りつけて、そういうものを求める生活の態度は大変人間の智慧のおくれた部分のあらわれであるということが一般にはなかなか納得できない。だって人間は昔から幸福を求めて来たではないか。ギリシア神話にある「金毛羊」の物語にしろ、メーテルリンクの「青い鳥」をもとめて旅立ったチルチル、ミチルの物語にしろ、求めるものは幸福であるという人間性を象徴した物語ではないか。だもの、きょうの私たちの心から、どうして「青い鳥」の幻が消えていよう、と抗議も出されそうである。そして、人生のある程度の経験から幸福について話すように一座に招かれた男女たちも、いつしか、幸福という二つの文字を互の間にやりとりしながら、目に見えないものを見えるように示そうと努力しながらついに大抵の場合不成功に終っている。幸福というものが、あっちからこっちからつつかれ、吟味され、論議されていることはまざまざとうけとれるが、さて幸福の愛らしく全い姿はどこにも描き出されていないことが多い。語る人々もいつの間にやら、幸福の二字が身のまわりにもち来っている観念の妖術にかかってしまうことが多い。第三者は、それらの検討や分析やらを見て、ああ何と熱心にいじられている事だろう! けれども、ここに幸福の輝きは溢れていないと、更に一層ゆくえさだかならぬ自身の幸福への模索に踏み出すのである。
人間の文明がおさなければおさないほど、自然界と人間社会とのできごとを、単純な観念で固定させて来たことは、今日までの歴史に面白く伝えられている。たとえば中世の人間は地球はひらったい台のようなもので、その両端には地獄があると考えていた。地獄へおちる恐怖という宗教からの恐怖と、科学の未発達からおこった未知の世界へ
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