なさんどうお考えになりましたか。最高五百円の月給、世帯主は一ヵ月生活費として三百円受取れ、あとは家族の頭数割で、一人百円ずつで、もし家族五人のところでしたら、一ヵ月の生活費として七百円、それに月給の五百円と合計月に千二百円取れるから今までの生活より余程いいということ、楽な生活が出来ると書いてありましたね。私、どうも迂闊なものですから、すっかりよろこんでしまったのです。そして後からよくよく考えてみたら、その七百円の生活費はどこから出てくるのかしらと思ったら、政府が呉れるのではなくて、みなさんの貯金から出すことなのですね。私、すっかり、糠よろこびしてしまいました。
政府はこのモラトリアムをしなければ、日本の経済状態が潰れるとおもってやったのでしょうけれども、一般私たちの経済事情から申しますと、どなたのお家でも、相当にあった貯金なども使い果してしまっている。
例えばいろいろな火災保険であるとか、戦時保険であるとか、また、退職手当というものも、大分使い果してしまっているのであります。別に私たちのところに、何万円もの金があって、それが自由になるなどという人は一般にはないわけです。
モラトリアムの決定によって、五人家族を標準に、五百円生活をしろということに規準が置かれたのですが、この五人家族というのは、なぜこんなふうに標準をたてたかと申しますと、日本の一軒の家の子供の統計は、年々殖えておりますが、多いところもあるでしょうし、少ないところもあるので、まあ三人ならいいだろうということで、家族全部で五人、五百円で暮せ、ということになったのだそうです。そして、あとはみんな封鎖されてしまったわけですが、しかし、おじいさん、おばあさんの二人がいらっしゃる家庭では、この二人はなんで生きて行くのでしょう。おじいさんたちの生活資金はありませんからね、などという人がありますでしょうか、しかし、この五百円生活だと、二人はみ出ていることになる。おじいさん、おばあさんは何で生きて行くのでしょう。政府が決めた、生きて行けという総計だと、ずいぶんおかしな話になるのです。
また、モラトリアムに伴って、いろいろな制限が行われることになりまして、女の月給というものは、男子の三分の一、二百円の月給として、政府は発表しました。これだと、つまり、男の三分の一で生きて行け、ということになりますが、しかし女だけの物価というものはありません。省線の切符が三倍になりましたが、私は女ですからこれだけしか払いませんよ、といっても通用しないのであります。
また、学生生活をなさっていらっしゃる方は、百五十円しか貰えない。百五十円では、外食するとしたら、学資が出ませんでしょう。学生の生活というものは、働いている人々の生活と、かけ離れたものであると、いままではおもわれておりましたが、いまでは、働いている人の生活問題と、学生の生活問題とは、がっちり結びついています。また、家庭の主婦の生活、台所の食糧の問題は、直接外で働く男の生活問題と結びついているのです。
今日の社会の問題と申しますのは、私はこういう立場だから、こういうことは知らなくてもいい、私はなんとか楽にやって行けるから、そんなことはどうでもいい、ということは言えないのです。
こんどの憲法草案を、そういう立場から考えますと、私たちにとって非常に重大な関係があることがわかってまいります。
憲法というものは、決して、大理石に刻みつけて、何かの記念品のように、土の中に埋めてしまうものではないのです。生きている私たちの皮膚のうえに書かれる、そして、私たちと一緒に生きてゆくものなのです。ですから、憲法というものは、私たちの今日の、日常生活と照し合せて、私たちはそれを充分に理解し、それを日常化し、そこから、人間が生きて行くものとして、考えなければなりません。
社会は人間が作ったもので、生きるためにあるものであります。人間が生きて行くのに、公平であることを――社会解放を願うのは人間の権利です。そうした見方から、あの憲法草案を見ますと、いままでの日本の憲法というものは御承知の通り、まことに不出来なものでありまして、あれは憲法ではない、ある一つの文章です。それで、はじめてこんど、憲法らしい形で、憲法が出来たわけでありますが、人は総て平等なり、国民は働く権利をもっている、などといわれております。
人は平等なり、と申しますが、そのときに、みなさんは、きっとお思いになるでしょう。この頃いろいろなことで、女子が出ても、選挙の問題や婦人の問題ばかりでなく、刑法・民法のように、まだまだ差別のあることを御承知でしょうし、婦人は公民権をもっておりませんし、代議士になって、いろいろよい施策をやるとしても、いろいろな役割をするにしても、地方の町で実際に行って実現する、働いて行く能力というものは、認められてはいないのです。ですから、こんど男子のように代議士に女がなったとしても、それだけでは「男女は平等なり」ではないのです。平等、平等といっても、言葉のうえの遊びではないのであります。
憲法のなかで、平等ということがいわれていますけれども、現実に、同じ仕事を、同じ量した労働者には、同じ賃金を支払わねば、ちっとも平等でないわけで、こうした、労働の第一の根本問題があれでは、はっきりされておりません。
また、あそこには、人は働く権利をもっている、と、はっきり、明文化してございますけれども、そうしますと、女と男とが、同じ権利をもって、同じ条件で働かねばならない。しかし、女の人は、母親になるという特性をもっていますから、その母性は保護されなければなりません。また、働いていた人が年をとって、働けなくなった時に、社会がそれを保護してやらなければなりません。
本当に、働く権利をもつということの内容には、こうしたいろいろな条件が備わって、はじめて、確立されるものであるにもかかわらず、あの憲法のなかには、一つも出ていないわけであります。ですから、文章の上でみますと、人は平等なり、で、たいそう進歩的にみえますけれども、まだまだ、あの憲法は、いたって不充分なものだということがわかります。ですから、もっと研究して、私たちの本当の代表者を議会に送り、もっとよく、もっと具体的な、実際の効力のある憲法につくりあげなければならないのであります。
私は作家であるのに、政治の話をするのは、なんとなく変だとお思いになるかもしれませんが、作家だからといっても、政治は政治家のことだといって、傍観出来ません。みなさん方も、それぞれ専門をもっておられることでしょうが、配給の魚と、野菜と、お米が少くなっても、私の専門ではないからといって眼をそむけていらっしゃる方は一人もないはずです。
私は作家でありますから、例えば紙の問題などは、実に痛切であります。私たちが本を作るということは、出来るだけ廉く、ためになる本を、美しいものにして、作りたいという念願をもって作るわけでありますが、今日、その紙はどういうふうになっているかというと、みんな配給になっております。けれども、ずいぶん紙を買溜めしておった人があるのです。最近巷にたくさん本が出ておりますが、一体そういう本屋は、どういう本屋かと申しますと、軍や何かに引掛りがあって、終戦のどさくさに、ちょろまかした紙を持っている人達なのであります。
そうすると、公平にみまして、本が出せるということは、誰にでも出来ることではないのです。やっぱりモラトリアムになっても、困らない者は困らないというのと同じことであります。
政治というと、何か議論めかして、各政党の立会演説をするのが政治のようにおもわれますが、そうではなく、私たちの毎日の生活のなかに問題があるのであって、その問題を解決してゆくのが、政治なのであります。
私は社会のために、廉い本を作りたいとおもうのです。自分は儲けようなどとおもっていません。印刷する職工さんによくしなければならないし、いろいろの事情から紙がない。又公定賃金では製本もなかなか出来ない。どうしても作って行こうとすると、高い本しか出来ないようになっているのです。こういう文化的のことは、政治とはちょっと関係がないようなことであるけれど、はっきり、いまの社会の経済問題、政治の問題というものと結びついているのです。
みなさんが、今日お集りになったのは、おそらく、このような政治の話を聴きに来たのではないでしょう。映画を見たい。それからすこしは文化的な話も聴きたい。そういうお気持でいらっしゃったのだとおもいます。私たちの文化的な希望というものは、今日のような破綻を来たしている社会のなかでは、みたされない。ですから、そういう問題をどう解決すればよいかといえば、私たちは、屋根から雨が漏ってまいりましたときには慌ててバケツを持って来て雨を受けます。そして、お天気になりましたら、自分たちの手で、屋根にトタンなどを当てます。こうして、自分自身の力で、切り拓いて行かねばならないわけです。
もうすこし、働いて生きて行くということを、人間の値打を美しく、この世に咲かせるように、みんなで協力して、切り拓いて行かねばならないと、痛切に考えるのであります。
私たちは女でございますけれども、男に脅かされるようにして生きてゆきたくはない。伸び伸びと何者も恐れることはなく、自分の力をもって生きて行かなければならないのであります。ですから、みなさんも、さきほどから、いろいろと纏らない話をお聴きになっていらっしゃいますけれども、幸福に生きたい、という希望があるならば、まだ咲かない幸福の希望という花の蕾があるならば、暖い日射しを当てて、美しく、立派に咲くように、非常に聰明に、実際的に、なんと申しますか、女のもっているしっかりした足取りで、日常生活と政治とをはっきり結びつけていらっしゃって、解決して行くように、そういうふうな生活態度というようなものが、本当の文化生活であるということを理解していただきたいとおもいます。[#地付き]〔一九四六年五月〕
底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
1980(昭和55)年5月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「婦人画報」
1946(昭和21)年5月号
※「婦人画報」五百号記念大会(1946(昭和21)年3月14日、共立講堂)における、講演の速記。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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