る関係を語っている。而も、一旦生まれた以上、我々は出生に絡むあらゆる社会的偶然と必然とを終生何かの形で荷なって、生きて行かざるを得ない。子供から大人になりかかって、漸々自分というものを考える力がついた時、何故自分は生まれたのであろう。そして何の為に生れたのであろうかと或る昏迷をもって考えたのは、恐らく私一人ではなかったであろうと思う。
 ところが、生活は活々と積極的なものであって、我々は決して生まれ[#「生まれ」に傍点]ただけでは終らず、やがて生む者として社会関係の中にあみこまれて来る。今や、生むものとして、我々は自分が計らずも生まれ[#「生まれ」に傍点]、その矛盾によって苦しむ社会的環境を、より合理的な方向に推しすすめてゆこうとするやみ難い情熱を抱いているのである。
 男装の麗人富美子というひとの生理的欠陥云々について医学的記述は示されていないから私達はそれについて謂わば何も知らないに等しいが、暗示されている言葉によって想像されるような不幸な性的混錯、或は錯倒であると仮定して、私はやはりその生物学的な不幸事をも生む者と生れるものとの関係、その関係に対する真面目な社会通念への刺衝として、うけとるのである。

 家庭を尊重し、一家における親子の生活に関心を置くわが民法は、妻に対し夫と同居せざるべからずという規定を設けている。然しながら、妻が、泥酔した夫や花柳病にかかっている夫との性的交渉を拒絶すべき母として当然の権利を、擁護してはいないのである。性別は染色体の問題であることを私達は知っている。染色体はそれを包蔵する細胞の健康状態と勿論結びついた関係にある。互に、夫は妻を強度のヒステリーと呼び、妻はその夫を性格破産者類似のものとして公表するような今日の増田氏の夫婦関係は、果して二十八年前、健全な結合におかれてあったのであろうか。今日富美子という人の行動に対して加えられるべき社会的批判があるとすれば、それは目前このような現象となって現れた一婦人の道徳問題の範囲のみで終らないことを私は感じているのである。
 男装の麗人の出来事に関連して、近代女性気質というものが改めて一般の注目をひいた。一月三十一日の朝日新聞は三輪田元道氏、山脇女学校教師竹田菊子氏、警視庁保安課長国監氏等の意見をのせている。等しくレビューの男役をする女優、例えば水ノ江タキ子その他に若い女学生が夢中になって、
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