いて、一般に反響をもった、そのことと自然連関しているのだと思う。
今日私たちは何故、文学を別の何かと比較して、先ず文学を非力なものとして認めた上で文学について物をいわなければならないような心理になっているのだろう。それぞれにちがったもの、それぞれの本来の機能のあるもの、それをそれとしての価値で何故あるとおり見ていっていけないような工合になっているのだろう。
文学の本来の言葉で語る場合にそういうひねこびた状態が伴った例は過去にもあった。過去の或る時代の文学が昔翁ありけり、という調子で語りはじめられていることを、私たちはただ外面の様式として見過していいのだろうか。
現代の作家の生活は一市民としても複雑で、過去のその頃のように、翁ありけりの生活に身をおくことは絶対に不可能である。また、そういう希望をもつものもなくて、反対に否応なく接触面はひろげられつつある。形象的にひろがりながら、文学の精神の表情は、何ものかに対して辞を低うするのが常識であるかのようになっているとすればその間の心理は一ひねり二ひねりしたものともならざるを得ない。
現代文学が、文芸思潮で動くことをやめ、心理で動いてゆくようになってから既に数年経った。その心理のうねりの間に文学の胚種は護られているのだけれど、文学の壮健な生い立ちのためには文学を導く心理そのものを時々はきびしく吟味してみるのがすべての作家の責任でもあると思う。
[#地付き]〔一九四一年六月〕
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「帝国大学新聞」
1941(昭和16)年6月30日号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
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