ぱっと彼女のなかへ入ってしまわない。彼女と作品とが融合し溶け合わず、一つの肉体となってしまわないで、かの子さんのまわりに書かれた小説が立っている感じが苦しいのであった。
 作者と作品の溶け合っているこの自然の力は微妙となって、例えば夏目漱石の写真を見たとき、人は、「吾輩は猫である」も「文学評論」もひっくるめて何となくわかった気がする。漱石の作品の全系列が人と一つのものとして、わかったという気持で映って来る。作品がどれ程巨大であり多量であろうとも、作者の質量《ヴォリューム》そのものの中にあってわかった感じがするものである。作家の資質のよさわるさ、大きさ小ささ、それなりにその人を見ると何かわかるところがある。作品のすきさもわかった気がし、きらいがあるとすれば、それも成程と肯けるものが必ずある。そして、これは決して、文学の専門的な何かを前提とするものではなくて、作家と作品の間にある血液循環、細胞関係の必然の結果であり、人間的な総括的な直感である。この事実は日頃あらゆる人々の経験しているところであると思う。
 かの子さんの小説は、かの子さんの曲線、色、厚み、音調、眼の動かしかた、身ごなしすべてをもっているのであるけれども、そこにかの子さんという人が出て来ると、一目でわかったものの代りに、何だか分るのだけれど分らない気がする。あすこだな、と内部的にぴーっと一致する点が見つからないのである。作品が人に溶けず人が作品にとけ出して来ない。かの子さんの色彩強烈な肉体のまわりに色彩強烈な作品が、空間をもって林立してでもいるような感じで、一言話せば作品の世界がじかに触れ開けて来る感じでなくて、何か苦しかったのである。
 一平氏が妻であり芸術家であったかの子さんへの追想として書かれた文をよんでも、そういう私の分らなさは、わかったものとならなかった。
 それにしても、このわからなさは何なのだろう。私だけの心持で、その一筋を追いつめてゆくと、悲しさに通ずるものが心に湧いて来るのである。[#地付き]〔一九三九年五月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「中央公論」
   1939(昭和14)年5月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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