「貧しき人々の群」はいかにも十八歳の少女の作品らしい稚なさ、不器用さにみちている。けれども、何とまたその年ごろの感覚でしか描き出せないみずみずしさに溢れているだろう。すべての穢らしさが、現実的につよく作品の中に描かれているが、その穢なささえ、よごれた少年の顔のようにやっぱりその地は、人生のよろこびで輝やいている。ロマンティックな情感とともにリアリスティックに、成長的に現実にふれてゆこうとしている幼い作者の努力をくみとることが出来る。
 この作品は、作者が年若い少女であったことと、その少女の生活環境にあわして社会的に積極的な取材であったこと、単純だが濁りのない人間感動などによって、その時代の文学に一つの話題となった。しかし、このことは、作者の生活を着実に大人の女として発展させてゆくためには深刻な害悪の多い刺戟となった。一人の少女は、自分をまともに女として、作家としてひっぱってゆくためには、一篇の小説を発表したことによって自分の内と外とにひきおこされたあらゆる不自然な力とたたかいつづけなければならなかった。その意味で、この作品は、一人の少女の生活と文学との可能性がそれによって進み終せるか、夭折させられるかという、重大な危期をその第一歩からもたらしたのであった。
 この小説の中には、素朴なかたちではあるが、おそらく作者の全生涯を貫くであろう人生と文学とに対する一つの基調が響いている。どういう風に社会に生き、人生を愛し、そして文学を生んでゆきたいと思っているか、ということが暗示されている。「貧しき人々の群」の中で、悲しい兄弟よ、と歎息した作者の心情は、その後永い歳月と波瀾を経て、社会史的な観点と未来の幸福の建設の具体的な方向とをつかむようになって来ている。この作品の背景となった農村の生活は、その後、作者の生活の大きな曲り角の一つ一つに、背景となってちらり、ちらりと現れて来ている。「伸子」の或る部分に。「播州平野」の或る部分に。それぞれ、日本の歴史の波が、この農村の生活そのものをも変化させているその姿において。――
 わたしは、いつか、この「貧しき人々の群」の発展したものとして農村の小説が書いてみたい。しんから、ずっぷりと、暗く明るく泥濘のふかい東北の農村の生活に浸りこんで、そこに芽立とうとしている新鮮ないのちの流動を描き出してみたいと思っている。
   一九四七年四月
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