か。現在行われている探偵小説、怪奇小説の類は退屈しているもの、毎日の生活感情に自主的弾力と方向とをもたないものが、面白がって熱中するのであろうと思う。この種の物語は最後に必ず解答が出て来るという厳然とした約束に立っている。しかもそこまでを、出来るだけ迷路にひっぱって、模造の山河をしつらえて、引きまわされるのを承知して引きまわされてゆく面白さである。
 科学的構造が精密であればあるほど謂わば嘘の過程に複雑さがあって、面白いのだろう。或る意味での知的デカダンスである。智慧の輪の好きな人間ときらいな人間がある。きらいな人間の方がより真実の意味でインテレクチュアルであるし、溌剌として現実的である。
 科学者が自身の科学的知識によって文筆上いろいろ遊ぶのがいけないと一口に云い切れないかもしれないが、少くとも本当の科学者であるならば、科学の健全性、啓蒙性に沿って、こういう種類の余技、或は道楽をするべきであると思う。それは科学者としての最小限の義務ではなかろうか。

        科学と探偵小説

 木々高太郎氏は、執筆する探偵小説によって賞をも得たことは周知であり、パヴロフの条件反射を専攻されている医博であることを知らぬものはない。同氏の『夜の翼』という探偵小説集が出ていて、それを読み、漠然とした愕きに似た心持を得た。多分『条件』という題で同氏には随筆集もある。それを読んでおらず、他の探偵小説集もよまず、只一冊だけについて物を云うのは、狭い結論をひき出すかもしれない。が、もし『夜の翼』が氏として余り確信のない作品集であるのならば又それはそれとして、失敗の中にあらわれている失敗の本質やその傾向がやはり観察の対象とされ得ると思う。
 この集の巻頭にある「無罪の判決」の中には探求すべきいくつかの問題がかくされているのである。話の筋は、氏の得意とされる馴れの行動[#「馴れの行動」に傍点]による知識人夫妻の悲劇的殺傷問題である。良人が兇器をもって不自然に死んだ妻の傍に立っていた。だから良人が手を下したのではないかという疑いは一応誰しも持つであろう。実際は誤った自殺であった。五十一頁に亙る探偵小説は、主人公が「現実と理性との薄明にさ迷っている知識階級で」あり「このような知識階級にあり勝ちな、殊に斯う云う犯罪事件に際して出て来る特徴は、どうも現実を理性で納得させると云う趣があることである。ほんとのところを言えと言うと、殺人は、否定しているのだ。然し自分が殺した証拠が斯くも多数にあると言うと、理性からの判断では、本人と雖《いえど》も殺人を認めなくてはならぬことになる。斯う云う時に、理性の方を信頼して、現実の方を信頼しないと云うような趣がある。」
 そこを予審判事が特別に注意したことから、無罪を証明し得るに至る過程は成立しているのである。
 一般の読者は、この全く特徴的な数行を何等不思議な気がしないでよむのだろうか。探偵小説の読者というものは、こういう我々の常識で合点のゆかない現実の歪みも、承認するほど不健康な精神活動に馴らされているものなのだろうか。
 良人に左翼女優の比叡子という愛人が出来、妻はそれを苦しみ、愛をとり戻そうとして自分を傷けたことから誤って死んだのであったが、法廷で、この女優が、殺人をおかさせたのは自分であると云う。その心持を、人間的な感情上の責任感として、あるがままに理解せず、木々高太郎氏はその心理を大変ひねって扱っている。
「私は今、あの時の比叡子の気持ちがわかります。私との間の、言わば恋愛が進行して、自分で自分がわからなくなったと言うので幾分かでも私を愛していてくれたことを信じます。然し私が捕えられてから、比叡子は再び、私をすっかり離れて、左翼的な気持になってしまっています。法廷で、私の証人に立った時に、自分も亦、殺人の罪を共にする筈だと言ったり、尚私のことを、自分のために妻を殺したのだと解釈したりしたのは、その証拠です。普通の人だったら、私が殺したのか、自殺なのか判らぬことは判らぬと言う筈ですが、そして正直な人はそう答えるでしょう。ところが比叡子が、殺人を犯させたのは自分であるなどと証言するのは、やはり左翼的な、合理的な、考え方に慣らされているのから出て来た解釈です。左翼の人は、日本とソビエットとを問わず、この合理的解釈を持っていますから、時とすると、真相を理解することが出来ないのだろうと思います。」
 松本という予審判事は男の打ちとけた態度に好感をもったと書かれているが、読者は困惑と不快との感情にのこされるのである。
 木々高太郎氏は、この小説の中で、現実と理性、合理性と現実というものを甚しい分裂、対立において示そうとしている。理性の具《そなわ》った人間なら自分が殺さないという事実は一見物的証拠が揃っていてもはっきり自分に分っている。だからその事実に立脚して外部的判断と闘うという風に考えるのは普通人の頭である。木々高太郎氏は、その「理性の方を信頼する[#「理性の方を信頼する」に傍点]」と云う内容を逆に見ている。殆ど正気と思われない程受動的な、被暗示的な精神状態において表現し、卑俗に云えば、「余りお前が盗んだと云われるもんでそんな気になっちゃった」という工合に扱っている。しかも、それがインテリゲンツィアは現実より理性にたよるからであるというような観方を結論で云われるのは現実的でない。常識の中で理性という言葉はそういう逆説でつかわれてはいないのである。
 更に合理性を左翼の思想と連関させて、合理性では現実の真相を理解し得ないという風に強調されているのを見ると、ピンと来るものがあって、自然著作年表を見た。するとこの作は昭和十二年一月の作である。本年の作である。本年の一月頃から日本文学の動きは『文学界』を中心に、文学における科学的客観的評価の否定、合理的な世界観の拒否の声が一層高まり、昨今はこのグループによって変種の実証主義、信仰的体験への要求が提出されている。文化における極端な民族尊重の傾向と結びついているものであって、日本文学の発展の歴史において明瞭に後退と反動とを示しているものなのである。科学の分野で、統制の問題が論議されはじめたのとほぼ時を等しくしている。この時、木々高太郎氏の理性と現実の乖離を強調した作品が生れたのは単なる偶然であろうか。

        現実は批判する

 志賀直哉氏の昔の小説に「范の犯罪」という題の作品がある。これは范という支那の剣つかいの芸人が、過って妻を芸の間で殺し、過失と判定されるのであるが、妻を嫉妬し、憎悪が内心に潜んでいた自覚から、法律の域外の人間的苦悩を感じる主題であったと思う。志賀氏の作品と探偵小説とを同日に論ずべきでないが、しかし、日本のインテリゲンツィアの思想史、生きる態度、人間性の質量と方向の推移とをこの二つの作品によって調べることは可能である。
 志賀氏の場合、范の理性は、法律上の物的証拠よりより深い人間的心理の現実、その真実に向って働いている。木々高太郎氏の主人公は、理性にたよる[#「理性にたよる」に傍点]ものだから、つい本当でもないことを本当だと承認することになる。この場合、理性、或は知性は喪失したものとしてしか実際に現れていないのである。
 ここに一人の女がいて自分がその男を愛し、恋愛的交渉にあるためにそれを苦しんだ妻が自殺したという時、自分が間接その死の原因となっているという気持を抱くのは人間として所謂人間的な心理であると思う。又人間相互の生活感情、社会関係の現実における複雑な作用のしかたの実際でもある。范の場合、一人の人間の運命に対する主観的な愛憎の責任、その責任感の自覚という追究で、テーマが深められた。木々高太郎氏の作品では、殺すという行動を機械的に殺しの操作それ自体に切りはなしてしまって、比叡子の心持を、合理性そのものの解釈においてさえ歪曲されている合理主義で批判している。概括して二つのいずれが、よりリアリスティックな誠意をもった現実把握の態度であるかを云うには及ばないのである。
「無罪の判決」という一小篇探偵小説の中に、なかなか無邪気ならぬ或る種の現代文化の動向を反映しているこの作者は「盲いた月」で一寸したヒステリーに関する科学的トリックを利用しつつ、ウィーンにおける親日支那青年李金成暗殺の物語を語るなかで、「支那人を捕える方法を知っていますか。それは在住支那人の数名のものを買収なさい。日本人を捕える時には、それは不可能ですが、支那人を捕える時には、それが唯一の手段です。」
というような辞句を示している。去年の秋の作品であるが、この粗大な、民族的類型化を卓抜な科学者であるという沼田博士に云わしめているのである。アメリカに移民として働いている日本人の不正入国をしたものが何より恐れているのは、アメリカ人であるか、ニグロであるか、或は同じ日本人であるか。
 科学者は科学的であるかという悲しい疑問が心に湧くのを抑えがたいのである。社会の歴史の或る波によっては、非科学的な科学と科学者が特にジャーナリズムの表面に浮上る場合がある。或は、今日における科学と科学者との弱い部分、非科学的な部分、内部的分裂面が文化反動に影響され、客観的には、知性、人間性の圧殺に加担したことになりやすい。今日はその危険に対する自他ともの慎重な戒心が決して尠くてよい時期ではないのである。[#地付き]〔一九三七年十月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「科学ペン」
   1937(昭和12)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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