ければならない生活に置かれていた間に再びファブルやその伝記「科学の詩人」にめぐり会い、科学と文学というものについて新しく感想を刺戟されたのであった。
 ファブルの伝記をよむと、彼が同時代人であったチャールズ・ダアウィンの科学的方法、生活法に内心猛烈な反撥を蔵していたらしい。ダアウィンの境遇は謂わばよい意味でのお坊ちゃん風な色調がつよいのに反して、ファブルはコルシカ辺に教師をしたりして貧困と窮乏と闘いつつ、自分の科学への道を切りひらいて行っている。イギリス人とフランス人、特にドウデエなどがまざまざと特徴づけている南フランスの血が、ファブルの気象の中で境遇的にもダアウィンと撥《はじ》き合ったことは人間生活の画面として無限に興味がある。
 素人でよく分らないけれども、ダアウィンが帰納的に種を観察し、進化を観察して行ったに対してファブルが、どこまでも実証的な足場を固執したのも面白い。だが、ファブルの或る意味での科学者としての悲劇は、寧ろそういうところにあったのではなかろうか。
 ファブルはダアウィンの著作を退屈でやり切れぬものとして軽蔑している。事実ダアウィン自身文章をかくことはまことに苦手で
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