ている。だからその事実に立脚して外部的判断と闘うという風に考えるのは普通人の頭である。木々高太郎氏は、その「理性の方を信頼する[#「理性の方を信頼する」に傍点]」と云う内容を逆に見ている。殆ど正気と思われない程受動的な、被暗示的な精神状態において表現し、卑俗に云えば、「余りお前が盗んだと云われるもんでそんな気になっちゃった」という工合に扱っている。しかも、それがインテリゲンツィアは現実より理性にたよるからであるというような観方を結論で云われるのは現実的でない。常識の中で理性という言葉はそういう逆説でつかわれてはいないのである。
更に合理性を左翼の思想と連関させて、合理性では現実の真相を理解し得ないという風に強調されているのを見ると、ピンと来るものがあって、自然著作年表を見た。するとこの作は昭和十二年一月の作である。本年の作である。本年の一月頃から日本文学の動きは『文学界』を中心に、文学における科学的客観的評価の否定、合理的な世界観の拒否の声が一層高まり、昨今はこのグループによって変種の実証主義、信仰的体験への要求が提出されている。文化における極端な民族尊重の傾向と結びついているものであって、日本文学の発展の歴史において明瞭に後退と反動とを示しているものなのである。科学の分野で、統制の問題が論議されはじめたのとほぼ時を等しくしている。この時、木々高太郎氏の理性と現実の乖離を強調した作品が生れたのは単なる偶然であろうか。
現実は批判する
志賀直哉氏の昔の小説に「范の犯罪」という題の作品がある。これは范という支那の剣つかいの芸人が、過って妻を芸の間で殺し、過失と判定されるのであるが、妻を嫉妬し、憎悪が内心に潜んでいた自覚から、法律の域外の人間的苦悩を感じる主題であったと思う。志賀氏の作品と探偵小説とを同日に論ずべきでないが、しかし、日本のインテリゲンツィアの思想史、生きる態度、人間性の質量と方向の推移とをこの二つの作品によって調べることは可能である。
志賀氏の場合、范の理性は、法律上の物的証拠よりより深い人間的心理の現実、その真実に向って働いている。木々高太郎氏の主人公は、理性にたよる[#「理性にたよる」に傍点]ものだから、つい本当でもないことを本当だと承認することになる。この場合、理性、或は知性は喪失したものとしてしか実際に現れていないのである
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