い。一方的に作者の主観的な意欲や創作熱に基いて表現的努力にばかり傾いて行くと、そこには作品の制作という作品そのものの[#「作品そのものの」に傍点]支配はあっても、作者と作品との関係に対する作者の支配[#「作者と作品との関係に対する作者の支配」に傍点]はなくなって行くばかりである。文学作品として書かれるべきものがみずからの表現を得るというのではなくて、作者自身の風俗が展開されるばかりで、「文学は自分自身に対していよいよ第三者的たらざるを得ない。」作者と作品との正常な関係は、作者の熱意と意企が、書こうとする対象に文学として明瞭な表現形式を与えようとする創作過程を、同時に、ある表現形式を与えようとする「作者の方法への自覚、反省、批判の契機において、対象がどのような現実[#「現実」に傍点]として把握されているかということをも追求する過程たらしめるところに」成立すると云われているのである。
 多くの作家たちが、或はこれらの言葉を、わかり切ったものだとするのかもしれない。けれども、この文学をして文学たらしめる一筋の道が果してめいめいの創作過程のなかで今日十分身につけつくされているであろうか。青野季吉氏が二月の『中央公論』に「作家の凝視」ということを書いていられる。現実を凝視する粘りづよさを作家に求めているのである。作家が自身の作品に深々と腰をおろしている姿には殆ど接し得ないという、「作品と作家の間の不幸な関係は、そのままで放置すれば、作品と作家がすっかり離縁して、てんでに何処へ漂流するかも知れないのだ。小説の前途について、いろいろ不安の説を聞くが、私にとっては、その離縁がもっとも恐ろしいことに思われる。
 小説というものは、作家の誠実な生命と結びついたもので、その意味では容易に産み出されるものでなく、誰も云うように『六つかしい』ものであるが、それは創造としての小説の話であって、小説には、他の芸術でも同様であるが、作者を離れても、手芸的に制作されうる調法な抜け道がある。その抜け道を誰も彼も心得るようになっては、小説の運命はそれまでだ。
 この時勢を生きるための作家の心構えなど、いまの私には聰明ぶって説き立てる勇気はないが、私にはこう云う時勢の中で、作家にとって最も大切なものは、執拗な凝視であると強調したい一念を抑え難い。」
 日本文学のなかでたとえそれがどんな形で経験されたにしろ自然主義の時代は背後にしている私たち今日の作家にとって、現実への凝視と云う場合、それが対象への単に主観的な執拗な絡みであっては、文学を健全におしすすめる力として弱いことがわからせられていると思う。現実の凝視ということも、具体的な創作過程にあっては、つまるところ、『現代文学論』の著者の示している如き、作者と作品と、作品がそこからつくり出されて来る現実との三角関係で、作者と作品との関係に対する作者の支配が、不可欠の条件だろう。近頃の活動的と目されている作家たちが、昔の作家のように「書けない」という苦しみをどこかへおいて来てしまっていることから、いつしか生じて来た「作品と作家がすっかり離縁して、てんでに何処へ漂流するかも知れない」(作家の凝視)という「手芸的に制作され」(同上)た小説が、まともな文学へ押し出される道も、文学の道として云えば、以上の点に、深刻な連関をもっていると思うのである。
 小説が「作家の誠実な生命と結びついたもので」(同上)あるために、私たちにとっては作家の意企、作品の主題、及び創作のモチーフというものの関係も切実なものとして迫って来る。『現代文学論』第五篇の「現代文学の非恒常性」のなかで、著者はこの問題において、志賀直哉氏の言葉と横光利一氏の言葉を何と適切に対比して、批評していることだろう。
 志賀直哉氏は「テーマがあってもモチーフが自分の中に起ってくれなけりゃ書けない」という態度である。横光利一氏はそれに対してこう云っている。「いつも文学を文壇の習慣と結びつけなければ棲息出来ぬ因循さが、自然主義以来牢固として脱けず、テーマがあってもモチーフがなければ仕事は出来ぬという完成にまで達するに到った。」そして横光氏は、彼によって何ものかである如く示される自意識の整理の要としてモチーフを見ている。「作家の世界像という観念構成に関する希いは、この意識の整理の必要から生じて来たのである。これを云いかえると、近来の作家にとっては、あらゆるテーマというものは、整理の必要というモチーフから起ると言うべきである。」
 だが、モチーフとは、横光氏が云うようなそのようなものなのだろうか? 文壇の習慣と結びついた、というようなものとして、作品のモチーフが感じられるというようなことは、私たちにとっては愕きであると思う。『現代文学論』の著者が、横光氏の「意識の整理の必要」という限りでは、それは作家の意図[#「意図」に傍点]であり得ても、個々の作品の創作におけるモチーフの説明とはなっていないとしているのは、極めて自然に肯《うけ》がわれる。モチーフを、「作家の内的要求が、テーマの直観的な端緒を」とらえるものとして理解することは、私たちの心の具体的なありように即している。「モチーフとは、作品にとっては作者なる母体につながる臍の緒である」本当にそうではないだろうか。
 例えば青野氏が真情をこめて「小説というものは、作家の誠実な生命と結びついたもので、その意味では容易に生み出されるものでなく」と云われる場合、モチーフの健全で真正直な理解なしに、作家はどこから自分の作品への血脈を見出して来ることが出来よう。モチーフは、テーマの直観的な端緒と云うとき、その現実の内容は豊富きわまりなく、或る一つの作品を一貫する文学的感動のニュアンスをきめるものもモチーフである。作者と作品と作品のつくられて来る現実という三つの関係へ、方向をつける必然の力として作者の胸底に湧き立って来るものも外ならぬモチーフであって、その生きた脈うつ道を辿って、作家は作品のなかに深々と腰をおろし、互の命を生き得るのである。
 臍の緒なしにつくられる「手芸的作品」氾濫の問題は、案外に大きく、真実の意味での創作の方法を見失った作家が、モチーフをさえその心胸から消して、敢て苦しまないという不幸から生じているのである。
 作家がモチーフをつよく自身の芸術的魂のうちに求めるという態度こそ、現実と自分というものの間に可能な限り自分からのヴィヴィッドで鋭い関係をとらえようとすることになる。モチーフを整理の必要として感じているとき、作家は、「在るものへの追随によって世界像を求める傾向へ」と発展せざるを得ず、今日の生活のなかで、それが文学にどのような結果をもたらすかということは、察するに余りある。所謂純文学が或る面では、案外に文学的内容を低めている動機もこのような点と切りはなしては見られまいと思われる。
 私はこの『現代文学論』から、自分としてわかっていた筈だったのに、こんな風にはっきりとは分っていなかったと自覚する多くのものを与えられた。それが非常にうれしく思える。
 そして、こんなことも思う。この著者が『文芸』の文章のなかで「兎に角小説をかきつづけていたらもっと人間がよくなっているのではないかと思うことがある」と云っているけれども、それも、決して一概に小説とは云えず、今日小説を書き並べているものが、人間としてよくなっているかどうか、大した疑問だとも云えるのではあるまいか、と。著者が益々、文芸批評の本来性として在る極々の要因を、情熱の源泉として身につけて、細密にして柔軟、逞しい成長をとげてくれることを切望するのは、作家としても決して私一人ではなかろうと思っている。[#地付き]〔一九四〇年三月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「日本評論」
   1940(昭和15)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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