りでは、それは作家の意図[#「意図」に傍点]であり得ても、個々の作品の創作におけるモチーフの説明とはなっていないとしているのは、極めて自然に肯《うけ》がわれる。モチーフを、「作家の内的要求が、テーマの直観的な端緒を」とらえるものとして理解することは、私たちの心の具体的なありように即している。「モチーフとは、作品にとっては作者なる母体につながる臍の緒である」本当にそうではないだろうか。
例えば青野氏が真情をこめて「小説というものは、作家の誠実な生命と結びついたもので、その意味では容易に生み出されるものでなく」と云われる場合、モチーフの健全で真正直な理解なしに、作家はどこから自分の作品への血脈を見出して来ることが出来よう。モチーフは、テーマの直観的な端緒と云うとき、その現実の内容は豊富きわまりなく、或る一つの作品を一貫する文学的感動のニュアンスをきめるものもモチーフである。作者と作品と作品のつくられて来る現実という三つの関係へ、方向をつける必然の力として作者の胸底に湧き立って来るものも外ならぬモチーフであって、その生きた脈うつ道を辿って、作家は作品のなかに深々と腰をおろし、互の命を生き得るのである。
臍の緒なしにつくられる「手芸的作品」氾濫の問題は、案外に大きく、真実の意味での創作の方法を見失った作家が、モチーフをさえその心胸から消して、敢て苦しまないという不幸から生じているのである。
作家がモチーフをつよく自身の芸術的魂のうちに求めるという態度こそ、現実と自分というものの間に可能な限り自分からのヴィヴィッドで鋭い関係をとらえようとすることになる。モチーフを整理の必要として感じているとき、作家は、「在るものへの追随によって世界像を求める傾向へ」と発展せざるを得ず、今日の生活のなかで、それが文学にどのような結果をもたらすかということは、察するに余りある。所謂純文学が或る面では、案外に文学的内容を低めている動機もこのような点と切りはなしては見られまいと思われる。
私はこの『現代文学論』から、自分としてわかっていた筈だったのに、こんな風にはっきりとは分っていなかったと自覚する多くのものを与えられた。それが非常にうれしく思える。
そして、こんなことも思う。この著者が『文芸』の文章のなかで「兎に角小説をかきつづけていたらもっと人間がよくなっているのではないかと思うことが
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