いてこれまで教えられて来た。乃木夫人、東郷夫人の貞烈と節倹とは、これらの上流夫人が身を持するにかたく、常に木綿の衣類で通していられたということを、重要な心がけとしてとかれた。
 酒と煙草を未成年者に各国とも禁じているのはなぜであろうか。酒ものまず、煙草ものまずということは男にあってやはり道徳的に意味のあることのように今日までは見られて来た。国民の体位向上の問題はやかましい関心をひきおこしているのであるが、酒、煙草に対する寛大さの結果は、体位をはたして向上させるものであろうか。国民消費としてひっくるめていえば、人口には女も入って、女の酒、女の煙草も、これまで内務省や文部省が保健と精神規律の上からそれを眺めていたとは異った角度でながめられようというのであろうか。
 銃後の婦人に求められている緊張、活動とその性質と、これらの消耗品との性質を対比したとき、私たち女の胸に快き納得を実感することはいささかむずかしいのである。晩秋に芳しいさんま[#「さんま」に傍点]を、豆にかえて、戦場の人々を偲びながら子供らに食べさせる物価騰貴時代の主婦の耳に、酒、タバコ、絹は十分につかえと聞いても、何かそこには日々の生活のやりくりとは離れた遠い、だが苦しい響があるのである。
 ヒロイックな生きかたにひかれる心は、微妙なものである。たとえば、火事場の焔をくぐって火花を体じゅうに浴びながら、一人の子供をたすけ出し、再び身をひるがえしてその母を救う消防夫の行動は、実に美しさを感じるほど英雄的であるに違いない。彼が、仕事を終って、一同の感謝と称讚にこたえて、謙遜に満足そうに笑うとき、拍手を制せられない感動をひとに与えると思う。だが、そのひとが、まさに火中に身を投じて、必死の活躍をしている時、何を考えていたろう。一途に救けようとしているものを救け出すことしか考えていなかったことは確かである。その目的にしたがい、日頃の訓練によって刻々の危険から身をかわしつつ、最大の科学性と敏捷と果断によって行動して、英雄的な成果をあげ得た。英雄的《ヒロイック》なものに対する感動はそのときむしろ手をつかねて傍観していた人々の心持を湧き立たすのであって、その消防夫の努力をたやすくしようとしてバケツ一つの水でも走って運んでいる者には、感情と行動の極度の緊張、節約があるだけである。
 私たちは、人間を切に切に愛する。生命を愛する。その一個たりとも無駄に破壊されることに対して冷淡であり得ない。人間の生みてである女の奥にひそむ母性の感情の深い根はそこにある。現実は、しかし、望むと望まないにかかわらず、ある時の義務としてその生命を捨てることを必要とする。一つの人間の命の最大能力を発揮する必要が、ある場合の結果として一人の人間を何の華々しささえない死へ無言で入らせる。
 銃後に漲る英雄的《ヒロイック》な気分の何割かが、避けがたい必要に求められて生命の危険を賭しつつある若い男、あるいは中年の男たちの感情へまで切実に迫って行っているであろうか。
 ある気分に煽られている自分の心持に知らず知らず乗っていて、しかもその浅い亢奮のために現実の生活のあらゆる面にその裂けめを出している矛盾にさえ眼がつかず、「勝たずば生きてかえらじ」と、鳴る太鼓の音を空にきき流しつつ、軍国調モードを、どんなにシークにステープルファイバアからつくり出そうかと思案しているのが、今日の若い女のその日ぐらしの姿であるとしたら、若い婦人たちの誰が、その愚劣な一人として自分を描かれることに承知しよう。
 女性の真の人間らしさ、やさしさ、敏感さは、今日かえって、憤りの中にあらわれるかもしれないのである。自分は飽食し、安穏に良人と召使とにかしずかれ、眉をかいた細君が、一種の自己陶酔の中で高々とうたい上げる祝詞《のりと》のような皇軍の歌のかげに、生きて、食っているもののいいようのない脂のこさ、残酷さを感じる心は、決して銃後の女のまじめさと心やさしさに反するものではない。
 女のやさしさというものも、愛の感情がそうであるとおり、抽象的なものではなく現実の内容を持ったものである。日本の女がこれまでの社会の歴史から負わされているさまざまの微妙な荷は、きょう決して雲散霧消しているのではない。そのものはあるいは新聞紙上によみがえり闊歩している徳川時代の形容詞とともに、かえって強まっているかもしれない。ある役所にタイピストが十何人か働いていた。戦争と共に、戦争に関係のふかいその役所では仕事が非常にいそがしくなって来た。それと同時に、この非常時に女が洋装をしていることは望ましくない。和服で通勤せよ、ということになった。それは真夏のことであった。タイピストたちは、今年はことに激しかった猛暑の中で大汗になり、袂を肩へかつぎあげて、残業で働いている。そういう話をきい
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング