である。一人一人の罪がどこにあるだろう。しかし、やはりわたしたち一人一人に責任はある。なぜなら、社会の歴史の進歩は、わたしたちめいめいの前進の総和であるし、常識の内容が新しい命をうけて生きてゆくのも、どこかで、誰かがその生活の現実で常識の古びた垣をひろく新しく結びなおそうと努力しているからである。
 常識というものは、いつでもそれぞれの社会の歴史が可能としている進歩の最低限を示すとともに、それぞれの社会のもっている保守の最頂点を示しているものである。そういう常識の本質をつかんで、人間の幸福に向って、絶えず常識の能動な面を刺戟してゆくことこそ、人間らしさではないだろうか。女性が常識のなかで実利的にばかりなってしまったり、固着した低俗に陥ってしまったりしては悲しいと思う。因幡の兎のようにされたわたしの同級の可哀そうな插話にしろ、もしあの時代の令嬢たちが、卒業すればあとにはお嫁に行くことしか目標がないような教育をうけず、家庭の空気がそういう風でなかったら、どうしてはっきりわかるほどの薄化粧などして学校へ来たりするだろう。青春の美しさは、それなりの麗わしさとして感ぜられず、娘盛り、お嫁入りと常識のなかで結びつけられていたからこそ、白粉が匂うことにもなったのだと思う。女性の一生の見かたのなかに日頃からそういうモメントがふくまれていることには寸毫も思いめぐらさないで、全級の前での嘲りをこめた叱責と水で洗いおとさせるという処置しかできなかったのも、おそらくはその時分の正しさ[#「正しさ」に傍点]についての常識の粗野さであったろう。
 こんな自然な話が自然な話として語られるようになるまでに、わたしたちの日本は、あんまり多くの犠牲を払わなければならなかった。



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「お茶の水」第60号、お茶の水女子高等師範学校附属高等女学校校友会誌
   1948(昭和23)年
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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