五年生だったとき、一人の同級生が、ある日きれいに薄化粧して来た。朝の第一時間がはじまったとき、担当の年をとった女先生から、その顔をすぐ洗って来るようにと命ぜられた。その一人が教室に戻って来るまで授業ははじめられず、みんな着席したまま固唾をのんで待っていた。やがて涙も一緒に水道の水でごしごしこすった顔を因幡の兎のように赤むけに光らして、しんから切なさそうにそのひとが席へ帰って来たとき、三十二人の全級はどういう感じにうたれたろう。こわさと一緒に惨酷さがわたしの体をふるわせた。
こういう忘れられない情景が、さながらに描き出されたとき、そこに奇妙な現象がおこった。客観的に描かれてみれば誰の目にも、そういう命令の与えかたのむごさ[#「むごさ」に傍点]ははっきりしたのだけれども、そのむごさ[#「むごさ」に傍点]が鮮明に感銘されればされるほど、そういうものを書くのは忘恩的だという判断が、わたしに向けられた。そんなにその頃は、絶対性が卒業生の気分を支配していたのだった。
その上、わたしの不運は、同級生のなかに仕事をもってそれで生きて行こうとしている友達が殆ど一人もなかったことからも起った。自分で選んだ結婚をして、数年後、その生活が破れた。このことも友達たちの生活と一つ調子に進行しなかった。もっと都合のわるかったことは、日本に治安維持法という法律がつい先頃まであったことだった。治安維持法が非人間な悪法であるということを理解しなかった人たちにとっては、自分の学校の卒業生が女のくせに、そういう法律にとがめられて入獄するというようなことは、恥辱のことと思われたのだろう。いまは、それらの人たちも「愛情は降る星の如く」に対して、けがらわしい死刑囚の書簡集だとは云うまいけれども。
いくつかのこういう事情がたたまって、わたしは学校と疎遠になっていたのだった。それを別のひろい表現で云えば、旧い日本の上流中流の生活を支配していた常識の狭さや無智にされているままの偏見との間に、そんなに永年の摩擦があったのであった。
きょう、こういう文章をかいていて、わたしは、常識の内容のうつりかわりについて、愕くほどの心持がある。いま、わたしの書いたものが学校の雑誌にのるのも、きょうの常識がそれをうけ入れているからである。かつて卒業生一同の穢点と考えられたのも、その非条理そのものが常識の一部分であったからこそ
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