て持っている文章である。
 そういう種類の文章のもう一つの特徴は、文章が粗大の傾きをもっていることである。大いに堂々と云われている結論なり断定なりが、十分精密強固な客観的事実の綜合の結果として、そう云われざるを得ないものであったことを文章のなかで自然と納得させて行く、という魅力、説得力を欠いている。文筆上の軍需景気とユーモアをもってゴシップに現れている武藤貞一という人が思い出されるのは、単なる偶然ではなかろう。
 日本の文脈ということについて極端にさかのぼってだけ考える人々の間には、漢語で今日通用されている種々の名詞や動詞を、やまとことばというものに翻訳し、所謂原体にかえした云いかたで使わせようという動きもある。果して、現実の可能の多い方法であろうか。日本というものの独自性の或る面、外来語でも何でもいつしか自国語にしてしまって、便利なように訛りさえして、日常の便利につかうところに、寧ろ示されてさえいると思えるが如何だろう。
 文章のわかりやすさ、無制限に数の多い漢字を整理し、複雑な仮名づかいを単純にして、子供たちの負担を軽くし、日本語の世界化によい条件をつくろうとしている国語国字改良の運動もある。これは、ジェスチュアの多い、勇ましい、そしてわかりやすい文章の続出という時代的な潮流に或る刺戟をうけつつ、その傾向とは異って、学問的に解決して行こうとする努力を示しているのである。
 作家では山本有三氏、歴史家では羽仁五郎氏などが、文化に対する良心から、自身の著作に漢字の制限と仮名使いの単純化を実行して居られる。作家、評論家などの間に比較的この技術上の関心がひろがって行かないのは、それらの人々が自分たちの職業的な習慣のなかで独善的であるというよりは、仮名づかいという純技術上の問題以前の問題により深い関心を求められているからだろうと思う。つまり、今日わかりやすい文章の必要は誰にもわかることとして、内容としてどういうわかりやすさが、真に日本の文化の成長のために必要であるかということを、考えていないものは無いと思う。文章は人間によって書かれるものだから嘘も書こうと思えば書ける。それだからこそ、文章を書く人々の真実性、人間としての善意が、常に新たな光の下で見直されなければならないのである。
[#地から1字上げ]〔一九三九年九月〕



底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
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