て王朝文学を読むと言っているのであるが、王朝の文学に当時の民衆は何と描かれているであろうか。「もののあわれ」を知るみやびやかな上流人に対して「むくつけき賤山がつ」として見られており、耳に喧しく「さえずる」ものらとして地に這うものとしての姿が写されているに過ぎない。
 文学は、最も原始的な時代に口から口へと語られた。聞き手として当時にあっても一定の大衆は予想されたのであったし、文学が印刷されるようになってからは、読者としての大衆は或る場合には民族と国境とを越えて考え得る状態になった。文学と読者大衆との関係はしかく密接なのであるが、従来のブルジョア文学に於ては漫然読者という表現の中に込めて考えられていた大衆というものの存在が、昨今作家にとって特別に見直され、しかもその見方に幾つかの異った傾向が見えるのは見落すべからざる点であると思う。林、小林、河上氏等はその「大人の文学」の提案の半面で、大衆というものを文化上の被供給者、被統制的な立場に置いて見ているのである。作家を軍人、官吏、実業家の活動中心と結びついたものとして文化的にも上位にあるものとして考えているのである。何か役人風な見方がここには感じられる。
 谷川氏の意見も穏当な態度で表現されてあるけれども、文化の上で従来の作家と大衆とが歩み寄るということは、ブルジョア作家の理解の中で見られている大衆の性質が元のままである限り、作家性が元のまま自覚されている限り、作家の側からの困難が予想される。「私小説」を否定して客観小説を提唱し、より広い社会性を作品に齎す必要は、大衆について理解がそれぞれに違っている作家たちの間にも、共通な一つの翹望として今日彼等の関心の前面に置かれている。今日の紛糾した社会情勢の中で、現実の諸事情を文学作品の中に客観的に描くことは非常に困難である。よしんば一作家がそれに充分の芸術的力量を持ち、素材も持ち、歴史の見通しを持っているとして尚その可能を疑わせる特別な事情が今日の日本に支配している。単純に個々の作家の才能の力で解決し突破することの出来ない柵がある。客観小説を提唱する人々が今日作品の実際では申合せたように歴史小説の分野に紛れ込んだり、通俗的な大衆文学、通俗文学に入って行っていることも、複雑な観察を求める現象である。
 多くの作家によって今日大衆は自身の文学を作る可能を持った者としてその面での有機的
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