としてやって、画布に向った時は一種の芸術的境地とも言うべき雰囲気の中に入って花だの蛙だの鹿だのというものを画いてゆくのと、例えば藤村、秋声の作品とは大いに違ったところがある。日本画家が今日尚住んでいることの出来る風韻の世界を、日本文学は既に四五十年以前失っているのである。
 文学作品が現実を語るという本質から、今日、日本の文化勲章が簡単に作家に与えられないという事情は、文学の側から言えば名誉であろうとも、不名誉であることは決してないのである。
 文学作品の本質は、この文化勲章の場合のように文学と当代の文化政策との関係の中に反映されるばかりでなく、小説が現実を反映し自然また現実へも照り返してゆく本質を持っているということは、文学自体の発展の問題の中にも、歴史の一定の時期には微妙な作用をもって現れて来る。今日文学は前代にない動揺を経験しつつある。かつても文学の流派と流派との間の論争や衝突は日本の文学に於ても激しいものがなくはなかった。しかし、それらの時期に文学に従事していた人々は、いずれも根本に於ては文学そのものの人間生活に於ける価値に確信を持っていたのであるし、その確信の上に立って自分の主張する文学の流派の存在意義を押し出していたのであった。プロレタリア文学運動とブルジョア文学との関係では、プロレタリア文学というものが一つの流派ではなく、本質に於てブルジョア文学の批判的発展者として登場して来たので、この両者の関係でブルジョア文学は初めて自身の理解して来た範囲での文学と言うものを先ずその価値評価の基準から動揺を受けたのであった。
 それでも、両者の或る点での対立を含みつつ、文学全体としての文化の面に於ける存在の確固性というものは明瞭に意識されていた。ある人は文学のためにプロレタリア文学運動等というものは「花園を荒すものである」と思っていたであろうし、反対に、文学のためにこそ行くべき道はプロレタリア文学であるという風に考えた人もあったのであった。
 今日私たちの見る文学の貧困の事情は全く以上のものと性質を異にしている。即ち、文学に従う人々の間に文学そのものの意義や価値を疑う傾向が生じており、そのことは文学を文学以外の現勢力に従属させることで、作家の日々の存在を安定せしめようとする傾向をも引き起して来ている。このことと現代のインテリゲンツィアの社会的・文化的存在の自信の欠乏
前へ 次へ
全13ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング