ノ属さぬ人々が、「かえりみて他をいう」という態度で、主として自然主義時代の作家や日本の明日にとっては、昨日の作家である人々についてばかり多く語りはじめていることも注目される。彼らの健忘症はおどろくべきものである。一九三三年に日本の民主的文学運動から、保身のために自分たちをきりはなし、対立者として自分を表明した作家、評論家がその後みじかい数年の間にどんなめにあったかを忘れたらしい。彼らにとってもその人間的存在と文学との守りてであり、ファシズムに対する抗議者であった民主的文学者に弾圧を集中させることで、彼らの得た利益は一つもなかった。彼らの市民的自由も思想も文学も無抵抗に殺戮されたばかりであった。
勤労者ばかりの文学グループに、理論・評論のグループは少い。今日はまだ勤労階級の文化は、評論活動をたやすく行うほど文学的な専門知識を蓄積していない。しかし近い将来に必ず生活的、文学的な民主的評論家が勤労者の間から生れるだろう。彼らは腐敗したジャーナリズム文学に毒されながらも、その一面には生活の現実に基礎をおいた強い判断力をもっている。今日これらの人々は、勤労人民として自然な自分たちの文学に対する
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