たということでは或は今日と同様だったかもしれないし、たぶん同様なのだろうが、自分がそのようにして一個の判断、見解をもっていないという事実に対する当人たちの自覚のありよう、感情の在りようは、何処か今日の人々の心とはちがったニュアンスを持っていた。
 自分にはよく解らない、ということに或る自然な文化の価値への敬意をふくまれての謙遜があった。本と云ったっていろいろとある。そのいろいろの一つ一つが鑑別されないから、全集や円本をとる。その気持はそのものとして在るままに感じられていたのだと思う。だから、その自然な自分には分らないという自覚が、次の段階では判ると思えたものに率直にとりつかせる動機となって、直接間接に日本の文化や文学の新しい潮にかかわりあってゆく力の発露となったのであったと思う。

 百円札をもって、これだけ本を下さい、という職工さんの話は、その頃にはなかったような現代の性格を示している。金銭というものの一つの側から云えば、いかにも値うちの小さいものとなりつつある感覚が表現されているといえるし、他面には、逆にきょう日この札一枚あればともかく何でも買える、その何でもの一つとして本も買えるという気持も、むき出しに出ている。本も買える。しかし、どんな本を買っていいのか自分には判らないということについて、心の中で立ち止っている姿はない。判らないことの上に居直っているようなところがある。
 判ることと判っていないこととの間に、どれ程の意味があるか、そんな感覚さえ失われているようなのは、今日の読者のどういう特質なのだろうか。

          二

 女学生などの間では、昨今、ごひいきの作家の名はさんをつけてよんで、格別そうでないのは呼びすてにするという風も生じている話をきいた。
 作家を公人として見て、姓名だけをよんで来た読者の習慣とそれとは感情において決して一つのものでないことは明らかである。
 デパートの書籍売場などで、反物を相談するように、これがよく出ます、と云われる本を買ってゆく奥さん風のひとも多いそうだ。それらの女学生にしろ奥さんにしろ、いずれも本は読んでいるのである。もとよりずっとどっさり買って、そして読んではいるのである。今日の読者にはこういう層も極めて多くなっている。
 興味のあることは、こういう種類の読者の層と文学がすきでずっといろいろの文学書も読んで来
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