を吐露するてだてとして流行したものであった。その時分には、漢文が武士階級の男子の教養の基本であった。しかも政治の激動期に、朱子学が或る役割を持っていたことなどから、漢詩が伝統の文学の形式から、直接の日常の感情表現の手段となって行った。明治維新というものがその一面に下級武士の大きい力のあらわれをもっているという事実が、こういう点にも見られるのである。従って詩吟という一つの朗吟法が持っているメロディーは非常に緊迫した悲愴の味であり、テムポから云えば当然昔の武士が腰に大小を挾み、袴の裾をさばきながら、体を左右に大きく振り頭を擡《もた》げてゆっくり歩きながら吟じられるように出来ている。詩吟とはそういう性質のものなのである。
 今日の最新技術を駆使して高度に合理化されている重工業工場の生活が、そこで働いている優秀な勤労者たちの精神と肉体とに求めているテムポとリズムとは、どういうものであろうか。現代の科学の能力を最大限に発揮して刻々に活動している機械の速力、能率、音響、あらゆるものが、その機械を支配し操って働く者に、精神と肉体の極めて節約整理された敏速さと合理性とを求めており、それが可能な一定の近代工業のリズムを必要としている。近代工業のおどろくべき進歩は、二十世紀に西洋音楽に深く影響して、オネガやストラヴィンスキーその他の音楽家たちが不協和音を摂取するようになったし、文学でも即物的な要素を加えられた。
 そのような工場生活者の精神と肉体との組立てに対して、全く要素の異った詩吟というようなものが、どうして互によく調和し、休養と慰安と心の高まりと成り得るだろう。二つのものリズム・テンポの生理は、そもそもからちがっているのである。
 今日一部の青年たちの間に詩吟が流行しており、それを健全なたのしみとする人たちも決して少くないのは事実だと思う。だがそれは、今日の一部の青年たちが好んで黒の紋付羽織を着て、袴をばさばさとはいて、白い太い紐を胸の前に下げて歩いている、その好みと合致するものであっても、工場生活の人には合わない。云ってみれば、優秀な技術者の精神は詩吟向ではつとまらないのである。
 詩吟そのものは健全であろう。けれども、それのつかわれかたで、生活の文化の問題としては現実に不調和を来し、結果として不健全をもたらすことにもなる。
 私たちの文化への感覚は、自分たちの生活に関して現実的に明晰な判断を持たなければなるまいと思う。音楽が好きとか分るとかいうことだけが私たちの文化の内容ではなくして、今日ではもう生活と音楽との相互的な生理がわかるとこまで育って来る必要が示されているのである。
 女店員たちの仕舞にしろ、そこには様々の興味ある問題があると思われる。謡曲が、文学として仏教の影響を深くもっていることや、能の発達が封建の大名のお抱えとしてうけつがれて来たことや、それらは誰も知るとおりである。日本芸術の遺産の中で能は独特な評価をもってみられ、それがわかるのが文化を理解するものの当然の嗜みと考えられている。
 それはそうあってさしつかえないのだと思う。でも、女店員がその謡曲による仕舞を稽古するということに果してどこまで働く女性の感情にとって必然があるのだろう。能や仕舞は庶民生活の中から自然にわき出した動作が要約され芸術化されたものではなくて、貴族生活、武士生活の感情と思想とが洗練し集約しつくした動きに象徴されたものである。習ってゆく道すじから云うと、能や仕舞ほど形式への絶対の服従を求める芸は殆ど他にない位と云える。お花でも投げ入れとか、お茶でも野立てとか、その場その時の条件を溌溂とした心に映して、工夫を働かせて人の心も自分の心も慰めるというものもある。仕舞はそういうものではない。その場の思いつきで舞われた仕舞というような例は天下にない。ふさわしい場面で、その場にふさわしい曲が舞われるというのが即興として許される限度で、そのふさわしさの判断にあたってやはり一朝一夕でない伝統の理解がものを云うのである。
 百貨店の娘さんたちの朝から夕方店を閉じるまでの忙しさ、遑《いとま》のない客との応接、心を散漫に疲れさせるそれらの条件を健全でない事情と見て、反対の解毒剤として、所謂落着いた古来の仕舞は健全と思われているのであろう。実際に百貨店の娘さんたちの動きを見ていると、陳列台や勘定台の間を終始動いている動きは、劇しくせわしいけれども、動きそのものとして実に小刻みで小さい。若い脚がのびたいだけ伸ばされ、しなやかな背中が向きたいだけ大きく向きかわって闊達に動作しているのではなくて、台だの、持場だの、狭苦しい区画の間で気の毒なほど青春の肉体の動きを制約されている。足と手とを神経とともに細かくつかって、それで飽き飽きするほどである。
 そういう体のつかいかたをしている娘さんたちの若い肉体が、求める律動はどういうものだろうか。思う存分に手も伸ばし肢も背ものばし、外気と日光と爽やかな風の流れの欲しいのが自然だろうと思う。勝手に体を屈伸させ、さぞ跳ねたりもしたいだろう。肉体の健やかな自然の要求はそこに在る筈である。
 仕舞は、整えられ美とされている線であるにしろ、そうやって既に制約されつめた動作を、又別の制約で鋳つける。きっちりときまりに従って、爪先を一分刻みに移してゆくような緊張を求められている。それも、或る種の娘さんの性格や感情には一つの快感であるのかもしれないけれども、そこには極めて微妙な女性の被虐的美感への傾倒も感じられなくはない。能の、動きの節約そのものの性質のなかには、明らかに日本の中世の社会生活からもたらされた被虐性、情感の表現を内へ追い込む性格が作用していて、しかも、ぎりぎりまで剪りこまれた外面へのあらわれの裡に、精神と情緒のほとばしる極限を表現しようとする芸術の手法である。自由な人間性の流露とは正に反対の手法である。
 今日働く婦人として生活している若い女性たちの実感が、もしそのような芸術の手法にぴったりとするものであるとするならば、私たちはそこに深刻な問題を感じなければならないと思う。今日の日本の二十歳前後の女性たちが、その胸に謡曲の世界の女性たち、四百年も昔の女性たちが、歎いたような悲歎、怨じたような恨、怨霊となってその思いを語らずにいられないほど生きている間には忍んでいた苦悩などを蔵して生きていてよいものだろうか。
 そこまで考えるわけではなく、ただ品のよい稽古事というのであれば、やはりそこに私たちの生ける文化への感情として考えさせられる点が在る。何故なら、それらの若い娘さんたちは、働く健気な婦人たちだのに、まだその働きの性質が自分の肉体に強いている無理を知らず、自分の生活の生理の要求に耳を傾けるだけの生活上の能力をもっていないという事実がそこに現れているのであるから。
 イギリスの皮肉屋の爺さんであるバーナード・ショウだの、現代物理学の神であるアインシュタインだのが日本の能楽の価値を理解したのは、文化への共感として当然であるけれども、そして、外務省が出版する雑誌やパンフレットに能の美を語る理由もわかるが、そのことと百貨店の娘さんが仕舞をやることとはおのずから別なのである。私たちが生活に即して文化の健全さを云うならば、この二つの場合の生活的な相異を、自分のこととしてはっきり日々の感情の中に感じわけてゆく力こそ、文化の健全さと云い得るのである。
 徒らな物真似や模倣を愧じる感覚も、文化の感覚として私たちのうちに美しく磨かなければならないだろうと思う。嘘偽や偽善を身につけまいとする潔癖も、文化の本質にある美しい感覚の宝である。常に事物の本質をわかって行きたいと思う心持こそ、文化の核心の精髄であるとともに、人間の人間たる所以であると思う。
 私たちが謙遜な心で今日の生活の諸相を省みたとき、文化の問題が最大の危険としてもっているものは何だろう。
 いろいろの点がさされると思う。けれども現在で最も重大なのは、所謂健全なものの不健全な使われかたに対して、私たちのかん[#「かん」に傍点]がいつとはなし鈍らされて来ている点ではないかと思う。
 大根を葱からよりわけるように、文化上の健全なものと不健全なものとを二つの山によりわけて、健全なものときまった方のものは、どんな応用のしかたをしてもその健全さは変らないと、金剛石さえ焼ければ消えることのある現実を忘れたような解釈が、知らず識らず毎日の中に流れこんで、心の畑を荒廃に向けているようなことはないだろうか。
 人間がいいものや大切なものを大事にする自然なやりかたというものには実に面白く愛すべきところがあると思う。大切なことというのは、誰しも始終喋りちらしはしないし、どこででも出してひろげるということをしないし、平気でそれに狎《な》れて感じがなくなってしまったりするようには決して扱わない。愛だの美しい精神だのと絶えず口に出す女のひとをみれば、人々は、ああいう風ではと、ひとりでにその真情に対して疑問を抱くだけの微妙な慧さをそなえているのである。
 この間きいた実際の話で、或る小学校長が毎朝子供達に体操をさせるとき、忠孝、忠孝というかけ声をかけさせようかと提案して、居合せた人々を暫し呆然とさせたということがあった。
 忠ということ孝ということ、それは健全である。だからと云って号令につかうというのは、正常の頭では信じがたい。その信じがたいことを、美風としてその校長は考え、そう考えることは常規を逸して殆ど精神の病気であるのだから、児童の薫陶などはゆだねておけない事を証明するのだとは考えなかったのである。
 さすがにそれをきいた人たちは呆然としたそうだが、そこまで行っては普通でないという事をはっきり云って忠告した人はなかったそうだ。私たちが今日の生活の文化の問題として恐れるべき点はここにある。一人二人の校長の狂信めいた昨今のものの見かたそのものより、それは異常であるという事を当然忠告すべきであるのに、何となし淡白に云い出しかねさせる空気が社会にあることを重大に戒心しなくてはならないと思う。
 もしそんな度はずれな思いつきが実現して、数百の少年少女が朝夕忠孝! 忠孝! と号令かけて、無心なままに感情を鈍化させられて行くとしたら、その結果は一つの冒涜であり悪であることを否定する人があるだろうか。
 今日文化のあらゆる面で私たちの願うべきことは、所謂健全な文化と不健全なものと一目でわかる区分をつけるというような単純なところにはなくて、健全さも或る瞬間には不健全なものと転化してゆく、その生きた刹那の機微に対して敏感でなければならないということだろうと思う。
 この頃の生活で私たちは配給をうけるということに馴れかかっている。配給される物については手拭一筋にしろ、こちらは全然うけ身な関係におかれざるを得なくて、ともかくそれを受けとらなければ無しでいるしかない事情になっている。私たちは、歴史の上に何か価値あることのために、そのような正常でない条件で日常を営まざるを得ないのだと知らされている。配給し合って互に暮すという方法に馴れることは私たちの一つの力ともなるであろう。けれども、配給とりも直さず万事あてがい扶持で、唯々諾々と生きる無気力の習性となるなら、それは堕落と云われなければならない。私たちは自分たちの世代において文化を堕落させたという責を、愛する後代から指摘されることは欲していないのである。[#地付き]〔一九四一年五月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「生活の思索」教材社
   1941(昭和16)年5月発行
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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