翔んだとして、ニグロの女として彼女の運命の本質は些も改善されなかった。
今日の生活の文化は、このようないきさつで、白粉の箱一つにも絡まれている。それを、私たちは果してよく感じとり理解していると云えるだろうか。
現在の世界の文明が到達している技術と資源開発の程度でさえも、地球は今日の全人口の四倍を、それも良好な生活水準で維持することが出来ると、学者は云っているそうだ。それだのに、今日世界の大部分がひどい食料制限をして、私たちはさつまいもを買うのにも苦心している。そこにも生活の文化の大きい問題がある筈ではなかろうか。
このように、現在私たちの文化の実体は益々世界的な関係で充たされて来ているのであるけれども、それなら今日自由に外国の事情を知ることが出来るかというと、それは大きい困難に面している。洋書の輸入は為替その他の理由で特別な狭い範囲だけ許されていて、一般の人の勝手には行かない。益々一般の文化が世界を知りたいのに、それを知る方法を有っているのは特殊な少数ということになって来ている。
それなら眼を国内に向けて、せめては身のまわりの出来事をよく知り会得したいと思う。だけれども、飾らずめいめいの感想を述べるとすると、その点、私たちの生活の文化は、満足なほど率直ではないのが今日の実際だと思う。明日の事がよく見とおせるだけ、事態は明瞭だとは云い難い。
しかし、健全な文化、明るく朗らかな生活ということは到るところに云われていて、私たちは心からそのような文化の誕生を期待し、歓迎し、その誕生のために努力を惜まない気持でいるのだと思う。
たとえば頻りに云われている健全な文化ということは、どういうことをさすのだろうか。文化そのものの本質は成長の方向、進歩の方向を持つ筈のものだという意味からみて、文化の健全性はどういうところに見るべきなのだろう。
私たちの身近に今行われていることから実例をとって考える。昨今の工場では労務課がいろいろ苦心して講習会をやるが、その一つで詩吟の会だの剣舞の会だのというのがある。この間或る婦人雑誌で、百貨店の婦人店員たちが仕舞の稽古をしている写真も見た。
詩吟というものは、ずっと昔も一部の人は好んだろうが、特に幕末から明治の初頭にかけて、当時の血気壮な青年たちが、崩れゆく過去の生活と波瀾の間に未だ形をととのえない近代日本の社会の出生を待つ時期の感懐を吐露するてだてとして流行したものであった。その時分には、漢文が武士階級の男子の教養の基本であった。しかも政治の激動期に、朱子学が或る役割を持っていたことなどから、漢詩が伝統の文学の形式から、直接の日常の感情表現の手段となって行った。明治維新というものがその一面に下級武士の大きい力のあらわれをもっているという事実が、こういう点にも見られるのである。従って詩吟という一つの朗吟法が持っているメロディーは非常に緊迫した悲愴の味であり、テムポから云えば当然昔の武士が腰に大小を挾み、袴の裾をさばきながら、体を左右に大きく振り頭を擡《もた》げてゆっくり歩きながら吟じられるように出来ている。詩吟とはそういう性質のものなのである。
今日の最新技術を駆使して高度に合理化されている重工業工場の生活が、そこで働いている優秀な勤労者たちの精神と肉体とに求めているテムポとリズムとは、どういうものであろうか。現代の科学の能力を最大限に発揮して刻々に活動している機械の速力、能率、音響、あらゆるものが、その機械を支配し操って働く者に、精神と肉体の極めて節約整理された敏速さと合理性とを求めており、それが可能な一定の近代工業のリズムを必要としている。近代工業のおどろくべき進歩は、二十世紀に西洋音楽に深く影響して、オネガやストラヴィンスキーその他の音楽家たちが不協和音を摂取するようになったし、文学でも即物的な要素を加えられた。
そのような工場生活者の精神と肉体との組立てに対して、全く要素の異った詩吟というようなものが、どうして互によく調和し、休養と慰安と心の高まりと成り得るだろう。二つのものリズム・テンポの生理は、そもそもからちがっているのである。
今日一部の青年たちの間に詩吟が流行しており、それを健全なたのしみとする人たちも決して少くないのは事実だと思う。だがそれは、今日の一部の青年たちが好んで黒の紋付羽織を着て、袴をばさばさとはいて、白い太い紐を胸の前に下げて歩いている、その好みと合致するものであっても、工場生活の人には合わない。云ってみれば、優秀な技術者の精神は詩吟向ではつとまらないのである。
詩吟そのものは健全であろう。けれども、それのつかわれかたで、生活の文化の問題としては現実に不調和を来し、結果として不健全をもたらすことにもなる。
私たちの文化への感覚は、自分たちの生活に関して現実
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング