らば、この二つの場合の生活的な相異を、自分のこととしてはっきり日々の感情の中に感じわけてゆく力こそ、文化の健全さと云い得るのである。
徒らな物真似や模倣を愧じる感覚も、文化の感覚として私たちのうちに美しく磨かなければならないだろうと思う。嘘偽や偽善を身につけまいとする潔癖も、文化の本質にある美しい感覚の宝である。常に事物の本質をわかって行きたいと思う心持こそ、文化の核心の精髄であるとともに、人間の人間たる所以であると思う。
私たちが謙遜な心で今日の生活の諸相を省みたとき、文化の問題が最大の危険としてもっているものは何だろう。
いろいろの点がさされると思う。けれども現在で最も重大なのは、所謂健全なものの不健全な使われかたに対して、私たちのかん[#「かん」に傍点]がいつとはなし鈍らされて来ている点ではないかと思う。
大根を葱からよりわけるように、文化上の健全なものと不健全なものとを二つの山によりわけて、健全なものときまった方のものは、どんな応用のしかたをしてもその健全さは変らないと、金剛石さえ焼ければ消えることのある現実を忘れたような解釈が、知らず識らず毎日の中に流れこんで、心の畑を荒廃に向けているようなことはないだろうか。
人間がいいものや大切なものを大事にする自然なやりかたというものには実に面白く愛すべきところがあると思う。大切なことというのは、誰しも始終喋りちらしはしないし、どこででも出してひろげるということをしないし、平気でそれに狎《な》れて感じがなくなってしまったりするようには決して扱わない。愛だの美しい精神だのと絶えず口に出す女のひとをみれば、人々は、ああいう風ではと、ひとりでにその真情に対して疑問を抱くだけの微妙な慧さをそなえているのである。
この間きいた実際の話で、或る小学校長が毎朝子供達に体操をさせるとき、忠孝、忠孝というかけ声をかけさせようかと提案して、居合せた人々を暫し呆然とさせたということがあった。
忠ということ孝ということ、それは健全である。だからと云って号令につかうというのは、正常の頭では信じがたい。その信じがたいことを、美風としてその校長は考え、そう考えることは常規を逸して殆ど精神の病気であるのだから、児童の薫陶などはゆだねておけない事を証明するのだとは考えなかったのである。
さすがにそれをきいた人たちは呆然としたそうだが、そこまで行っては普通でないという事をはっきり云って忠告した人はなかったそうだ。私たちが今日の生活の文化の問題として恐れるべき点はここにある。一人二人の校長の狂信めいた昨今のものの見かたそのものより、それは異常であるという事を当然忠告すべきであるのに、何となし淡白に云い出しかねさせる空気が社会にあることを重大に戒心しなくてはならないと思う。
もしそんな度はずれな思いつきが実現して、数百の少年少女が朝夕忠孝! 忠孝! と号令かけて、無心なままに感情を鈍化させられて行くとしたら、その結果は一つの冒涜であり悪であることを否定する人があるだろうか。
今日文化のあらゆる面で私たちの願うべきことは、所謂健全な文化と不健全なものと一目でわかる区分をつけるというような単純なところにはなくて、健全さも或る瞬間には不健全なものと転化してゆく、その生きた刹那の機微に対して敏感でなければならないということだろうと思う。
この頃の生活で私たちは配給をうけるということに馴れかかっている。配給される物については手拭一筋にしろ、こちらは全然うけ身な関係におかれざるを得なくて、ともかくそれを受けとらなければ無しでいるしかない事情になっている。私たちは、歴史の上に何か価値あることのために、そのような正常でない条件で日常を営まざるを得ないのだと知らされている。配給し合って互に暮すという方法に馴れることは私たちの一つの力ともなるであろう。けれども、配給とりも直さず万事あてがい扶持で、唯々諾々と生きる無気力の習性となるなら、それは堕落と云われなければならない。私たちは自分たちの世代において文化を堕落させたという責を、愛する後代から指摘されることは欲していないのである。[#地付き]〔一九四一年五月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「生活の思索」教材社
1941(昭和16)年5月発行
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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