無心らしい横顔だけれども、とき子の顔の端正な線はくずれず、いつも様々の感情を内に支えて暮しているひとの面ざしは、消えていない。
 物を云おうとしてすこし開いた唇をそっと閉じ、峯子は体を元に戻した。こういう瞬間のとき子の姿全体に流れている寂しさに通じるような静けさは厳粛で、いい加減な自分の声でそれを擾《みだ》すことが憚かられるのであった。とき子の左眉から瞼にかけて薄すりある蒼い痣《あざ》は、ふだんより目立って、そこにも何かの影が映っているかのようだった。ほんとにそれが物の蒼いかげで、とき子がその場所からどけば、かげだけはそこに止って、するりと白く、彼女の顔が抜けて来られるものならば。
 今こうやって、事務所での初雪を眺めるとき子の心持のなかには、峯子がそれを張り合いとし、よろこびとしているものとは、またちがって、複雑な思いがこめられているにちがいない。
 英語専門の学生時代、峯子は級の委員をして二年上級のとき子と知りあった。その時分から、とき子は、課外のタイプを熱心にやっていて、夜は速記を勉強しに神田の方へ通っていた。そして、だんだん気が合うにつれ、自分が生活の用意としてその学校にいることもかくさなかった。
「うちの父は変った性質なの。昔の人が山師って云うのは、ああいうのかもしれないわ。それでも、私はこんな学校へ入れてくれたりして……。うちの経済から云えば無理なんです」
 そんな打明話もした。
 とき子は、卒業するとすぐ、東京でも屈指の、半ば国立のような或る大銀行に勤めるようになった。採用試験のとき、とき子はいつも通りの素顔でゆき、勤めるようになってからもそれは変らなかった。とき子のその態度を峯子は無関心に見ていなかった。おくれて勤めるようになった峯子の海外貿易の会社が、その銀行のごく近所にあったりして、特にこの三年ほどの間に二人のつきあいは、自然と同窓生のありふれた範囲を超えたのであった。
 峯子の働く会社は気風が派手で、若い婦人事務員は相当化粧にも凝る。勤めて間もない或るとき、峯子が素朴なおどろきをあらわして、
「うちの人たち大したものよ」
と云った。
「地顔とまるきりちがう顔色なんかしてケロリとしているんですもの」
 父親が地味な語学の教授である峯子は、そんな都会風な扮装になれていないのであった。
「私の方はあんなところだから、いくらかちがうわね」
 とき子はそう云ったが、やがて、
「でも、恥しいわねえ、まるきりちがう自分の顔が現われるなんて、どんな恥しいでしょう」
 敏感な言葉の陰翳は、峯子をはっとさせた。とき子の声の裡には、そういう化粧法なんかでぬりかくすのに耐えない自分としての心持が響いていた。
 正二が現れてから、女としてとき子の心を思いやる峯子の気持は真摯なものを加えた。人としてのとき子の立派さが、女として全く偶然の不運によって磨かれつつあるのを見ている峯子は、自分の平凡な幸福について謙遜になり、その幸福は自分の責任にかかっていると思うのであった。
 秋、二人は郊外へ歩きに出かけたことがあった。黒くうすらつめたい土から真赤に燃える焔をあげ連ねているような唐辛子畑が美しく、鵝鳥が鳴き立てながらかえってゆく遠い草道があったりした。
 一本の高い赤松が土堤の上でその幹を西日に照らされているところで、休んだとき、
 ふと、とき子が、
「私の方、四十で停年なのよ」
といった。
「あなたのところはどうなのかしらん」
「きまっているのかしら……」
 峯子がちょっと考えただけでも、三十を越したという年配のひとさえ、あの夥しい女の数のなかに思い浮ばなかった。
「私、どうせ一生働かなければならないのに、四十で停年なんて、実際困ると思うわ。これからって年でしょう? もうそれから先は働かないでいいなんてこと、私に絶対ありっこないんですもの」
 峯子にはまた少し別な心がかりがさし迫っていた。時局の推移につれて、海外貿易の仕事に変化が生じ、会社では事業を縮小したりそろそろ人減らしもはじまっていた。一方には新興の会社がどっさり出来て男子の不足が見えて来ていたから、よしんばそこが駄目になったとしても峯子の勤口がなくなるという目前の心配はないのであった。峯子にしても自分の一生の行手を安心して眺めているのではなかった。
 これから先の何年かの後に、必ず無事で正二が還るかどうか。それは、自分の心にある願いや熱い思いでどう云えることでなかった。一生働くものとして自分を考えている方が日々が健やかに過せるし、そういう生活の態度こそ、正二が遠いところで送っている何年かの歳月の内容にふさわしいと思えるのであった。
 そういう心のきめかたに立って見まわせばただ月給がとれているというばかりの会社づとめは、単調で機械的であった。その働きかたに、例えば時間のつかいかた
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