ェーターの片肱を机にかけ、勤勉な手をおとなしくスカートの上に休ませてこちらを向いている。その眼の上には、偶然が、拭いてとることの出来ない隈をつけている。
 親のもとに生活し、良人からおそらくは小遣いを送られ、いい服装をして買物包みを膝にのせている紀子に比べて、それは何と質素な、とるに足りない姿だろう。けれども、何とわるびれたところのない姿であろう。とき子は隈のある顔をわるびれずこの人生にむけて生きて行こうとしている。
 自分とちがった生の姿がそこにあることをはっきりと認めるだけ、現実に即した心持も紀子には欠けているかのようである。
「風が出て来たわねえ」
 帰り仕度をして立ち上りながら紀子が云った。
「ほんとうに」
 止め金のこわれた活版屋の外開きのガラス戸がギラリと雲立った空の太陽を反射させて煽られはじめた。

 吹きつのる風の中に、消えのこった雪が少しよごれてところどころに見える竹藪の横を掠めなどしながら、満員の省線は果なく拡がった市の端れへ向ってまっしぐらに走っている。
 押された勢でそこまで詰ったゆきどまりの窓際へ体をよせて揺られながら、峯子は、何心ない視線に一枚の罫紙をとらえた。それは、ありふれた事務用の罫紙である。書かれているのは報告のようなもので、峯子の肩へ無頓着に時々肱をつかえさせながら、それに目を通しているのは四十がらみの鼠色カラーをつけた男であった。峯子の目をひきつけたのは、その男の風采でもその罫紙でもなく、書かれている文字の感じであった。字は万年筆で書かれていた。そのペン先がいかにも使い順《な》らされて、柔かな幅をもっている、平均に力が入って、くっきりとした明晰な書体だが穏和なふくらみの添っているその字は、峯子に正二を思い出させた。正二もこういう風な字をかいた。一目みた時は変ったところのない中に、何か惹かれるもののこもった字を書く。実際に二つをひき合わせてみれば、きっと随分ちがっているのだろう。けれども、そのペンのあとは、今の峯子に抵抗しがたい思いで正二を偲ばせた。字を見ると、彼の肩つき、声、その声や眼差しの微妙な情緒の動き。生きている正二がまざまざとそこに立ちあらわれるようであった。
 正二が出征してから、峯子はもう幾度か便りをうけとっていた。はるばるとした海を越えて、少し遅れて着くどの絵葉書も手紙も、みんな正二が出征前から使っていた万年筆でかかれていた。いつも変らない字をみると、いろいろな峯子の知らない村や街々、いろいろな予測しがたい出来ごとの中を、正二はやはり紛れもない正二として、峯子に、こんなにも気持のわかっている正二として、経ていることが、云いつくせない、いとしさで思いやられた。
 日ごろの気質が手紙のかきぶりにもあらわれて、正二は、峯子の生活から遠い自分ひとりの感想めいたことなどは書かず、いつも新しい村や城の人々の生活ぶり、ちょっとしたユーモラスな出来ごと、読んだ本のこと、さもなければ、居馴れた場所に季節のおとずれがどんな変化をもたらしたかということなどを話すように目に見えるように云ってよこした。表面に波立ったところのないそれらのたよりは、いつも峯子の心に不思議な作用を及ぼした。峯子は、その手紙をよみ、くりかえしまた読んでいると、いつも心が落ちつけられた。正二が無事であるとわかったからというだけでなかった。手紙にこもっている沈着な柔軟さには、どれだけの精神の包括力や堅忍や洞察や自分への思いやりが裏づけられているかということを感じずにはいられなかった。正二の手紙から息ぶいて来るそれらの感銘は、ひとりでに峯子が自分の感情を持ってゆく、その持ちかたに影響した。峯子もだんだん、留守の正二に向って迸る自分の激情に我ながら足をとられなくなり、その心の波濤をいつくしみながら、正二への手紙には、日々の出来ごとを細かく面白くつたえつつ、そこに自分達をあらわしてゆくすべを学びはじめた。
 峯子はそのことを深くふかくよろこびとした。恋しいひとに、あなたが恋しいとばかりしか書けないとしたら、それは何と味気なかろう。愛す、愛すと、紙が黒くなる迄かいたとして、それで心の生きた響きがどこにあらわされよう。いろいろなことをして、いろいろなことを思って、生きて動いて暮している、その人を互にいつくしむからには、互いに生活の姿をうつし合えないで、どうして溶けあってゆけるだろう。
 峯子は、いつだったか或る明治の文豪と云われる人が、夫妻の間にとりかわした書簡集をよんだことがあった。その本の頁にはびっくりするほど愛すという言葉が反覆されていた。そして、読む者は、夫妻が、この香気の立ちやすい、くりかえせばたやすく倦怠する表現を追いつ追われつして、必死に、同じ言葉をまだ熱いうちにと対手に向って投げかけているような印象をうけた。この熱烈さに
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