の限度に達しているという感じです、まさに溢れんとしているようです、矛盾が。ハムレット的雰囲気というのは、実に実に面白い、こんな写真はじめてです。右の端に元帥服を着た人は、英語で交わされる二人の話に、笑顔で向いています、アゼルバイジャンの髭はなくなって格幅よくどっしりと若々しく手を何と上品にくみ合わせて、首を二人に向けているでしょう。気品というものは、かかるもの也という風よ。チャーチルは荒海で古びた指導のあざらしのように巨大ですが、あまりのリアリズムのために美を失っています。ハムレット風の顫動は、思いやれる様々の点での興味をひくとは云え、そこに感じられるのはよろこびではないと思います。アンの「北方への旅」にあるああいう揺れ(彼女のスケールでは、気の利いたようでもあり機智的であるようにもあらわれる、あの聰明さとそうでないものとの間の微妙なニュアンス)気品人間的尊貴の美しさというものは大した大したものね。わたしははいバルザックさんと見せてやりたいのよ。人類の、こういういくつかの典型を、あなたはどこまで描けますか、と。わたしは、バルザックが困惑するだろうと思って大いに笑えるのよ。彼も大きい心情により、その強壮な心臓によって、気品にうたれるでしょうと思います。しかし彼にその気品の再現は出来ないわ。彼が生涯をその間に投じた利害の波瀾、地位の争奪、奸計のどこの糸をひっぱっても、その品位に到達する筋はないから。品位の解説をするものは、一見それと全く違った文飾ない現実でありますから。面白いわねえ。わたしは、その一葉の写真が、これこそ現代史と呼ばれるべきと思いました。
 こういう写真が、こんな粗末な、刷のわるい新聞に出る、現代は正にそういうときなのです。
 そして、わたしは、十八の少女のように、自分もどうか気品ある人間になりたいと渇望を感じます。十八の娘は、そう感じる丈です。が、今のわたしは生活によって、そういう気品の価値はいかに高いものであるかを学んで居りますから、その渇望はひとしお切実であり、謙遜であり、且つ執拗です。ねえ、ほんとうに精神の輝は何と覆えないでしょう、才能だの、賢こさだの、というものでは到底輝き出せないつやと品位がとりかこんでいるような、その立派さの極単純になっているそういう複雑さ。ああ、ああ。わたしのリズムは高くなって、わたしのささやかなオーデをうたいたくなります。「わたしは知っている」という題で。わたしは知っている、その箱は出来のわるいみにくいものだけれども裡には一かたまりの純金。無垢なる黄金、よろこびの源。世故にたけた年よりは、きっとわざとその箱をこしらえておくのだろう。余り無垢なるものが、時より早く歳月に消耗されてしまわないように、と。無垢なる黄金が、小銭に鋳られてあっちに、こっちに、散ばってしまわないように、と。生き古りて来た年より、人類の、思慮ふかい吝嗇さ、いじわるさ。それらを、わたしは知っている。こういう詩の断片もあるのよ。明日は月曜日ですが森長さんの返事をもって参ります。

 三月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 三月二十二日夜
 今、十時十五分前です。そして珍らしい状況で、この手紙をかいて居ります、鷺の宮なの。そこまではきょう申しあげていたから平凡ですが、ここへ来て二十分もしないうちにわたし一人留守番をすることになって細君とまあちゃんが出かけ、七時頃帰るのが、まだ戻りません、ひどい風ね、ここの廊下に立ってガラス戸越しに見ると、南東の方が濛々と茶色にけむって居りました。そっちが市内なのね、日の出あたりの埃のひどさお話にならず、市中塵埃全く目も口も開きかねました。細君と娘とは、野菜のために出かけました。大した骨折りよ、ね。この風、あの混む電車、距離。でも、ここの台所を見ると、あるのは、くされかかったゴボー1/3本だけです。正直な窮乏の姿よ、行かざるを得ません。
 わたしは、前の手紙でお話したように、家じゅうとどろとどろで、おまけに寿江が来、まだ開成山からの娘も居り、寿江が例のとおり気づまりないかめしい在りようをしているので気が疲れて、迚も、出かけるからと云われて一緒に出てあのひどい駅で揉み通す元気がありませんでした。それで留守番をひきうけました。七輪に火をおこし、湯をわかし、ジャリジャリの顔を洗い、髪をとかし、おむすびをたべ、そして床に入って五時まで、ゆっくりと横になって居りました。
 同じ東京でも、目下のところ第一線的地域にいる人間、やけ出された人しかいないような地域にいる者と、こうしてまだ傷かない土、春の樹木のある地域とでは、こんなにして横になっていても何とのびやかさが違うんだろうと、どこかの窓のカーテンが展かれたようないい心地です。同時に、こう考えるの。この風に、そして、旦那さんの安
前へ 次へ
全63ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング