う心からの歩きをしたいとき、わたしは傍に自分の影しかないことを痛切に思います。わたしは、臆病というより自分の身に責任を感じるから、所謂物好きは決してしないたちでしょう? 危険においても人的組合わせにしても。そういう歩きに、つれだって歩いてほしい人がほかにどこをさがして在るでしょう?
 ブランカの慾ばりは、大より小に至る千変万化ですから、御苦労さまね。しかし、それらのまことに些細な慾をもみたしてやったらさぞ愉快だとお思いになることでしょうね。
 きょうは、何となしなめらかな感情の肌の上に、ほの明るく雪明りがさしているような工合です。どうも久しぶりであざらし[#「あざらし」に傍点]のようにお風呂に入って、そのさっぱりした皮膚に、雪の白さや雪明りの空気の快よさが作用し、おまけに夜中起きずに十二時間眠った休息が及ぼしているらしいと思います。
 やっと一人になってのうのうして、おまけに雪でしょう? 人も来ず。ね、それに、一緒の細君がやっと居馴染んで来て、私の気風も分って、安心しはじめ、日常的な用心をゆるめて来たので、何となし平滑な日暮しになって参りました。これから、わたしが仕事する、ということに馴れて貰うと、万事好都合ですし、御主人が在宅なら夕飯後は自分たちのところへ引こもるから、わたしは一人で呑気。でもね、ごくなみの意味で、いい方という一括的結論に到達させるまでには、こまごました朝夕の心くばりが多いものね。そして喋るということさえ何と一つのおつとめでしょう。安心して云わないでいいことを云わないで暮せるようになる迄には。特に女のひと対手の場合。少し黙っていて暮したいようよ。
 さて、きょうはあれから南江堂や南山堂めぐりをして、いくらかの収穫がありました。金原商店で、横手社会衛生叢書というのを出して居るのですね、それが幾冊か出ていて、芥川信著行刑衛生。佐藤秀三『社会と医療機関』竹内『公衆衛生』などあり、『海軍衛生』というのも買ってみました。特殊な生活における保健状態が興味あると思って。何かの御参考になるでしょうかしら。江古田療養所から出ている『結核』これは病理的? らしい雑誌です。南山堂で『治療』というのを出していて、これは体質の治療的関係を扱った記事がどうかと思います。一寸見たところわたしには要領の説明が出来かねますが。『医学中央雑誌』というのを見つけました、各科の文献集録ですが、この号は「内科」で呼吸器を扱って居りますから。『日本臨床結核』というのも、どのようなものかしら。『結核研究』は出て居りません。
 きょうは、(二十五日)警報で一日がはじまり。又雪になって来ました。積もりそうね。こんな天気にB29[#「29」は縦中横]で壕入りは閉口と思って居ります。大挙来襲しそうに見えたのは、詳報なしの由、よこへそれたというより、手前で稼いだというわけでしょうか。Bでヘキエキするもう一つの理由は、急に食堂の大ガラス戸が二枚動かなくなりました。Bときくと全家開放なのよ。小型機ときくと雨戸をしめなくてはならず。〔検閲削除〕マア二十分後に到着ですって。〔検閲削除〕
 二十六日。きれいに積った雪が庭では一尺五寸もありそうです、ところで、昨日、手紙あすこまで書いたのが殆ど午後二時。三時すこし過には、このあたり大修羅場を現出して、一月二十八日の夜の数倍の轟音と、すぐうしろの藤堂子爵の火の子で大奮戦をして五時すぎやっと安全となりました。夜中のブザではもう体が動かず、三つ四つの轟音をふとんかぶって失敬しました。日暮里の方に向って、うちから半丁ばかりのところに大疎開道が出来たということには何かの理由があるでしょうね。一ヵ月に一度ずつ、こうしてつい十四五間先にバクダンがいくつか落ち、火と闘っていると、いやでも度胸が出来ますね。どういう線があるのかしらないけれども、うちはその線の下で、いつもほんの指のかげん(ボタンを押す)みたいなところでタマはまぬかれて居ります。しかし保たないでしょうね、ここの線はB29[#「29」は縦中横]線らしいわ、そっちの受持ちらしいのね。寿が、いい工合に前日(二十五日)来ていたので昨日は火の見張り、水くみ、けさは雪かき、情報ききと親身に活躍してくれて、大いに助かりました。いる女の人は火が近い、となると、自分のものをもってうろうろして、私が云ってやっとバケツもって出てゆく程度ですし、最後まで安全と思っていたところが案に相違して、ひるも夜も同一線に落してゆくというようなことで浮腰たって居りますし。今にきっと何とか云い出すわ。そのときわたしは是非いてくれ、とは云いたくないのよ。寿が来てもいいと云ってくれるから、そういう時は寿がここに暮してくれるよう、開成山に談判しましょう。国が用事で上京する、そのとき寿がいては困るというのは余りひとを馬鹿にした話
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