準語でしょう。女が暮すにも伝統がないから助かると思います。しかし離れやというような建築法は用いないでしょうから(防寒上)どんなところに住むのでしょうね。そちらのある入江から北西に二つほど入江を先へ行ったところに紋別下湧別というところがあって、そこに字何とかいうアイヌ語の部落があって、そこによにげの久一が、今は出世して居りますって。この久一という人は祖母の頃、前の畑を耕していた人です。納れなかったのね狭いカンプラ畑では。そこであっさり海をわたり、どんどん行ってそこの岸でとまったのね、そして今では「馬も立てているだべ」ということです。開成山から行っている人が多いのですって。思いがけないことねえ。わたしはその久一のところへ梅干をおみやげにもって行きます。北海道に梅干はないのですって。農家では生活出来ませんが、その辺に常呂とかいうところがあって、そこいらからゆく温泉があるらしいのよ。大変好奇心があります。九月中旬まではすこし山の中でもいられるでしょう。わたしの湯恋いをお察し下さいませ。
 よほど久しい前、室蘭や虻田辺からずっと新冠まで行ったりした頃、わたしはアイヌ語がすこしわかりました。今でもおそろしく細かい断片がのこって居ります。札幌のバチラー博士[自注18]がアイヌ語字典をつくりました。パール・バックの「戦える使徒」の父とはすこしちがったのね、対象も全然ちがうから当然ですけれども。ロンドンに戻れば気の毒な浦島の子であったこの老人はどうしたでしょう。
 袋のような口をして黒い髭《ひげ》が二本黒子から生えていた夫人はその頃もう大変な年で、何でも銀でこしらえたものが大好きでした。父が博覧会の用事で行く毎にボンボン入れや小箱をあげていつもホクホクしていました。このお婆さんが、博士夫人になる前、何とかシャイアの淑女だったとき描いたという水彩画がありました。新しい何かのものをもって札幌に来た二人は尊敬され乍ら、お祈りをしてイギリス生粋の酸っぱいルーバープに牛乳かけてたべているうちに、日本はこの人々を消耗して、からをイギリスに戻したのでしょう。支那と日本とは西欧に対して独特ね。
 ふと気づいて書くのをやめ検温しました。疲労熱が出ていたわ。きのうもでした、(大丈夫、じき直りますから)すこし熱っぽいと連想が飛躍して、雑談以外には面白さもない文章が出来ますね、滑走風スピードになって。滑走は
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