て来たから安心です。ここの畑のさやえんどうは樹がのびすぎて豆少々という姿よ。うっそうとして茂っては居りますが。キャベツが西洋の子供の絵本にあるように見事に大きく葉をひろげしんが巻きかかって居ります。林町のはどうしたかしら。虫くいになりかかっていましたが。こんな話題も入って来るとおりこういうところで暮していると、咲なんか話しかた話題実に変りますね。話しかたが変に誇張的です。どういうわけかしら。人の好意に対して誇張も加る感謝したりしているうちにああなるのかしら。そして小さい小さい話題をくどく話します。それは事が少いからね。こんな世界の大波濤の時代でも、その煽りをだけくって、狭い無智な生活にかか[#「かか」に「ママ」の注記]んでいると、そういう工合になるのね。田舎生活のもっているこわさというものを感じます。人間生活として、果してどっちがまし[#「どっちがまし」に「(東京のこわさと)」の注記]かしらなどと思います。しかし考えれば、どちらが、と対比さすべきではなくて、犬死にをせず退嬰しない、ということがなすべき生活ですね、わたしがこう感じるのもここ[#「ここ」に傍点]のこの人達[#「この人達」に傍点]のせいね。
きょうはあとで、島田へも手紙さし上げましょう。そして、「北町のばっぱ」のところへ行きましょう。これは一郎爺という祖父の代からの知合いの娘でもう七十何歳かです。わたしの子供時代を通り太郎や健坊を孫扱いにして家の世話もよくやいてくれるばさまです。
健坊がおきたら参りましょう、今二時、昼ねよ、健坊はね、さっきわたしに抱かれて体をじかに撫でられているうちにトロンコになって眠ってしまったのよ、笑い乍ら。撫でるということは何と動物らしいそして人間らしいやさしさでしょう、わたしの掌は愛するものを撫でそれを休ませ眠らせたいとどんなに希っていることでしょう。この頃は荒っぽい仕事をどっさりしなくてはならないから、この掌もいくらかは硬くなりましたけれども、愛するものを撫でるに硬すぎる掌というものはこの世にないと思うわ。ふと思いました、感覚から人間を聰明にすることは出来ないものかしら、と。聰明な人間でなくてはいい健全な感覚の鋭さもない、しかしその逆は利かないものかしら。こんなことを思ったことがあります。ここに深く結び合った二人があって一方が何かの障害で知覚を失ったとき、二人だけの最もイン
前へ
次へ
全126ページ中67ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング