経はフランスです。「悲劇」でない悲劇。
 コメディア、フィニタという文句は、パリアッチョ(道化師)という極めて近代風なオペラの終曲の主人公のアリアです。妻に裏切られた正直なパリアッチョが、劇中劇で妻を殺してしまうの、そして泣くように歌います。コメディア、エ、フィニタと。見物は本当に自分たちの見ているのはコメディーでそれが終ったと思ってきいているという趣向よ。直哉の「范の犯罪」は潜在した殺意からのことをかいていますが。このレコードが実に面白いのに古物で、ひどい音なの。細君をやる女の声は素晴らしい美しさ、人間ぽさ、動物らしさ、女らしさです。〔中略〕
 さて、ここで忽然として家事的転換をいたします。袷の件。そちらにある銘仙の羽織を前へ出しておいて頂きます。その羽織と着物とを合わせて一枚の着物をこしらえ、羽織は別のにいたします。どうぞお忘れなくね。鏡の物語というのがありますが、それは又別に。

 二月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二月十一日
 ひどい風が納って、やはり春の近づいた天気になりました。紀元節というと、この日の夜まだ道具の揃わない動坂の家で、あなたが七輪に火をおこして御自慢になったのを思い出します。でもあの頃はああやっても家がもてたのね。何一つなくて、でも炭だけはたっぷりで、わたしはあしたの朝、途方もなくからいおみおつけをこしらえましたね、そして、私の御料理の腕前については、久しいことあなたは断言をはばかる、とう状態でいらしたわね、又いつひど辛いみそ汁をたべさせられるかと。思い出の中にある季節の感じは、こうして、風に鳴るガラスの音をききながら感じている今の気候と、どうしても同じようではありません。あの季節感の中には、早咲きの梅か何かいい匂いの花の枝が揺れて居りますね。
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(ここまで書いたら立たなくてはならないことになりました。島田から小包が届いたのよ。太郎があがって来て、「治《ジ》とかいてある上に達とあるよ、子供達の達」と報告いたしました、さあ行って見なくては)
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 とんだいい紀元節で、大人も子供もホクホクです。送って下すったもので。メタボリンもたっぷり来ました。岩本さんが買ってくれた分の由。一ヵ月も留守をするからその前に当分間に合う丈薬や何かお送りしておきましょう。この節一ヵ月留守するというと、あとに大変気が配られます。一ヵ月というものを、只三十日と考えることが出来ないから。
 きょうは、これでなかなかいい日になったのよ。さっき裏の画伯が来て、川越の先の部屋[自注2]かしてくれるということになり、これも大安心です。島田へ行く前にそちらへ引越ししておいて、そしてゆっくり行けますから。こっちへ一応の単位を揃えておくつもりです、机その他本棚も。第一、あなたのふとん類おくところが出来て、何と気が楽でしょう。二十日すぎに見に行きます、そして、すぐ荷を運んでおいてね。わたしもここにともかく場所が出来、目黒の先の大岡山に寿江の室をこしらえ、まあどっちへ行ってもいいことになって気がのびます。大岡山の室[自注3]というのは大した眺望で、ゾラが巴里を高い郊外の住居から感じたように、何か東京というところを俯瞰する感じのところで一寸面白いところよ。富士が見えます、秩父の山々も。空気もよいの、川越の方は田圃の中に電車の駅が一つあって、そこからすぐですって。そこは農業の家で亡主人が絵をかき、そのためにマッチ箱的別棟アリ、その二階をかりるわけです。まわりには川と田だけ。未亡人は昔から家政のきりもりをずっとしてきた人で、しっかりした女のひとらしい風です。
 若い女教師(小学の)をおいているそうです。わたしは、どうしても、ここにいさせて貰わなくてはならないとは思って居りませんから、疎開につれて、主人公がどういう計画を立てるか、それについても急に途方にくれることがなくなって大安心です。
 二月五日のお手紙ありがとう。本当にこの間うちはろくでもないことでね。もうこれで終了です。むしろさっぱりいたしました。あなたにも大分ホコリ浴びせましたが、どうぞかんべん。
 体を直すことについては、全くそう考えます。考えてみれば、私は病気が癒らないうちから心労が多すぎ其でよほど神経は手間どったと思います。ここで一ヵ月ほど周囲の全くちがった、そして春の早いところで暮すのは、体のためどんなにいいかと楽しみです。それにつれ、昨夜も熟考いたしましたが、この間うちからの話ね、あれは、私が行くときはもってゆかないし、手紙でかいて頂くのもすこし後にしとうございます。五年ぶりですものね、行くのは。友ちゃんには婚礼のとき以来ですし。せめて今後は、お互に気づまりなことなしに一ヵ月のんびりしてみたいと思うこと切です。もうわた
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