さやっているが、もういいということにいたしました。私はやっと暮しかたも会得したと思うところも出来ました。
 わたしの愉しさについて、同感して下すってありがとう。こういう風に、何となし心あたたまる心持は何と微妙でしょうね。私がここでの生活について、サラリと気持をもちかえることが全く自然に可能になったのも何かそういう内奥のモメントが作用していると明瞭に感じます、自分の生活の線、つまり私たちは本当に私たちの生活を生活しているのだ、ということを、改めて私たちのものとして、この中に感じ直したことも、やはり同じ点からだと思います。
 こころに及ぼす深さは何と深いでしょう、それは、それ程のことと予想もされなかったと思います。ダイアモンドはどんなに小粒でも石炭でないということなのね。私は殆どありがたく思っているのよ。詩というものが、これでこそ人の心の宝と申せるわけです。そして詩を保つために払われるたくさんの心づかいというものの価値を実に実に感じます。
 自分の得ている仕合わせについて感じることは一再でないけれども、又新しくそのよろこびをもってよく体を直し勉強もしましょう。
「九十三年」は終りまで読んで、ここに云われているとおりの感想をもちました。確に大きくて多い欠点をもってはいるが、ユーゴーは、スケールがあります、統一された自身のものとして。バルザックのスケールの大さは、事象をとり集めそこにあらわれる現象を縫う博大さですが、ユーゴーは「九十三年」というものを、一まとめに全輪廓からつかまえる力量をもって居ます。彼なりであるが。そして、大変面白かったのは、「九十三年」の主人公の若いゴーヴァンによって、「九十三年」の傑物たちが、その段階では思い到ることの出来なかった生活の正義――たとえば女性の位置などについて、前進した理想をかかげている点です。バルザックは九十五年のヴァンデーを「木菟党」に扱って居ても、勝敗の渦中に秘術をつくす人的交渉のなかに全精力と智力とを傾注していて、ユーゴーのように、人類の進歩の足どりとして其の時期を見て行く性格ではなかったのね。それに、ユーゴーは、バルザックのように、ナポレオン三世の治世に、俗衆の抱いたと同じ野心で煽られず、その頃は海峡諸島の島に暮すことをよぎなくされていたのですってね。「ミゼラブル」は、その国外生活の時代の作品の由。セルバンテスにしろ、これにしろ、そのことによって宝石となり得る優秀な人々にとって流謫《るたく》とは何たる深い意味をもっていることでしょう。ツワイクは一九一四年頃の「三人の巨匠」のドストイェフスキー論の発端にそのことを云って居ります。ワイルドがかなくそになってしまった辛酸の中で、ドストイェフスキーは宝石に自分を鍛えた、と。そう云いつつ、ツワイク自身、自分の流謫を支え切れなかったのは、何と哀れでしょう。それに、そういう芸術家にとって真に自分を見出させる流謫の形が、決してチャンネル・アイランドとか、雪の野とかきまっていないのも、何と味あることでしょうね。ただ多くの場合、その境遇の真価を理解するだけ、自分の生涯というものの意味、存在の意味について考えつめられず、目前の暮しに視点をたぶらかされるから、徒に、不遇的焦慮に費されてしまうのでしょう。
「九十三年」でもう一つ大いに面白かったのは、ユーゴーらしい自信をもって、ダントン、ロベスピエール、マラーの大議論を描き出していることです。これは勿論非常に単純化されて表現されているし、原則というものに立っての理論の通った論議ではありませんが(時代の性格として)三人の人となりと、当時の有様がよく想像されます。マラーという男は、私なんかのように浅薄な知識しかなかったものには、冷厳極る流血鬼のようにしか考えられませんでしたが、決してそういう人物ではなく、三人のうちでは清廉な人間であり、政治家であったのね。九十三年の有様が、ヴァンデーをはじめ、フランス中支離滅裂であるということを最も案じたのはマラーであり、その統一の力を求めたのもマラーであり、そのために集注的権力を一人に与えることを=即ちマラーとしては得ることを――考えたのであり、そのために、清めようとして骨までしゃぶる親鼠となってしまったのね。ロベスピエールは、ブルターニュ地方を通じてピットの力、イギリスの侵入をおそれ、ダントンはオーストリア、プロシアをおそれていたときに。マラーの、その見とおしは、今日から見て正鵠を得ていました。マラーの卓見は、一面にその時代の巨頭間の勢力争いに足をひっかけられていて、コルデールが憎んで刺し、人々はそれで吻《ほ》っとしてしまって、腰をおろしナポレオンさんによろしく願ってしまったのね。その筋に立ってみれば、ナポレオンの初めの活動は、実に愛国的意義がありフランスの救いだったのに、亡命貴族の
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