るのね、漱石なんかこれでカンカンになって、ロンドンで神経衰弱になったし、あれ丈の文学論もかきました。日本人はおもしろいわ、大抵の人が一番気の利いたことは自国語でしか云えないところに、お気の毒さまというところがあります、そしてくやしさが内攻して、見当ちがいの愛国熱でゲンコふりまわしたりします。(よくベルリンで博士の玉子たちがやったように)
日本人と云えばパリで緑郎どうして居りましょう、ルアーブルからセーヌづたいにパリは五時間以内ではないでしょうか、英語が通じるようになって便利するのでしょうか、そうまで呑気ではないでしょうね、いくらヨーロッパの中だと云っても。フランスの中だと云っても。あの若い二人の生活もここで歴史的一転をいたしましょう。丈夫でいてくれと思います。
ついでに、一寸家事的ノートつけ加えます。冬のジャケツ上下、シャツ、ズボン下、どてら二枚、今ごろ着る外出用の単衣(これは新しいもので御存じありません、大島の紺がすり)、先へよって、真夏着る麻など、開成山におきます。咲に、いつもお送りしている約十倍、保管たのんでおきました。現金です。いつでも、すぐ用に立つようにしてあります。これは咲がまさか[#「まさか」に傍点]絶対責任をもつそうですから。どうぞそのおつもりで。そのあと、工合よく行けば、もう其と同じ位か、すこし多く、やはりあずけておきます、(今のところ、こっちは出来ていませんが)これは、わたし一人のまかない分とは別にしておいてのことですから御安心下さい。わたしの方は、自分にくっつけておきます。場所がちがえば、ちがったですぐ役に立つように。何しろ人だのみは出来ない場合もありましょうし、又そんなひとも居合せず。
薬は、オリザニンみつけました土曜日に届けます。ワカモトで出しているワカフラビンというのは、もっとよい(メタボリンよりも)そうですが、今どこにもないので。ヴィタミン剤も精製されすぎていなくて、コンプレックスの多いものの方がいいということになって来ている由。よくわかりませんが、そんな風な話しでした。では又。
お大事に。疲れを。
六月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月十一日
さて、こんにちは。きょうは十一日で日曜日よ。いま午前十一時半。さっき国、咲、太郎一連隊が出発したところです。あと、ざっと掃除して顔を洗って、髪結って、出来たてのところで一服というところを、こうして書きだしました。全く、いまこそ煙草のむべき[#「のむべき」に傍点]ところよ。三日に来て例のとおり大騒動いたしましたが、今度はね、その眼の下で芸当を演じたことが計らず曝露して、しんからいやになりはてながら、慎重にかまえ、例の身勝手鈍感の方はそれと気づかず、つまらなく文句云ったり、亭主風をふかせ、それをきいているあいての心は百里もあっちにあって、大したことでした。寿の引越しのときもわたしはここに居りません。実の妹が皆と一緒に食事もしないで、引越しさわぎをしなければならないのを私が見て黙って居られません。しかし、もし七月に入り咲が来られなければ、国に開成山へでも行って貰ってわたしが手つだいましょう。
おっしゃっていた本、宮川何とかいう人のは、厖大なばかりでインチキ本の由、間違いも少くない由です。『結核の本質』という病理と細菌の専門家の書いた本でよむべきのがあるそうで、入手次第お送りいたしましょう。あの御愛読の『結核』教養文庫、あれは名著だそうです。あんな姿をしていて名著だというところに、何とも云えないいいところがありますね。
きょうは、今迷っているところなの。きょうのうちに外出して、果しておいた方がよい用事が二つばかりあります、あした午後はお客でつぶれてしまうから。だが、朝早くから大さわぎして、お握りこしらえて出してほっとしたところだもんで、あついし、出かけるのも何となし進みません。もとだと、夜平気だったし、心持よかったけれども、今、夜はこわいし。どうしましょうね。行った方がいい? なまけてしまって、あした? でも困るわね、あしたなんて。くさってしまうものがあるのだから。くさらないうちに届けなけりゃいけないのよ。あああ、チン(犬)がもうすこし馬琴風の神通力をもっていて、首からザルでも下げて用足ししてくれるといいのだけれど。八犬伝とまでは行かなくて結構ですから。
きのうは、毛のものと、どてら荷作りしてどうやら出しました。先ず一安心。もう二つほど送れるといいのです。この間、一日のうちに大体毛のものの洗濯終ったら本当に疲れました。お湯をマキでわかして、運んでは足し、洗っては運び、黙ってウムウムと働いて、きのうあたり本当にグロッキーでした。きょうもまだ十分と行かず。ここいらで一日二日ゆっくり横になりたくなって来て居ります。
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