ょう。このおっかさんは政治的葛藤におかれて、コルシカを脱出し、チュレリーでボナパルトが手柄を立ててフランス司令官に出世するまでマルセーユで木賃宿ぐらしいたしました。ジョセフィーンというひとについてはネゲティヴにかかれています。
ところで、わたしのこの頃は、台所用本ばかりで御免なさい。どうもそうなるのよ。根をつめなければならない本にとりつけないの。今に、家の片づけも終ったりすればいくらかましになって、一日に歩く家の中での哩数も減るから、すこし念入り読書も出来るでしょう。それ迄御辛棒下さい。そして、さもよめそうなふりをしないことを、閉口頓首の正直さとしておうけとり下さい。其でもそちらの待つ間にこの頃は本をよむようになり、細菌物語も終りました。余り結核菌についてあっさりかいてあるので目白の先生に話したら、衛生学者だからの由。弘文堂の本もそうして読もうと思います。営養読本もつまりはそちらで読んだのよ。たっぷり一時間半あるとよめますね。かなり。電車などの中では全く駄目。新聞は今も殆ど見出しよ。本文には努力がいります。
では又。木曜日にお目にかかれると思いますが。
五月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(はがき)〕
隆治さんの宛名が変りました。
ジャワ派遣輝第一六三〇〇部隊(乙)
けさは、胡瓜の苗を植えました。問題の南瓜が遂に二本出て、思わず二匹出たよと申しました、そんなに生きものが出たという感じ。大きい種は孵ったという感じよ。
五月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月二十七日
今、夜の九時です、きょう歯医者が手間どって、かえったのが七時。それから御飯たいて今すんだらこの時間。けさは咲が帰るのでわたしは五時半から起きて働きました。くたびれたところへ俄におなかがはって大変眠うございます。森長さんへ電話をかけて、もうねてしまうわ。あした朝早くおきてまる一日二人暮しするのをたのしみに。二十八日から三十一日まで防空訓練で、夜明け頃起きて警戒しましょう、と廻覧板にありましたから二十九日は夜明けに目のさめる位早くねなくてはなりますまい。早ね早おきは大した規模で必要な次第となりました。では電話かけましょうね、ああでも、しきりに全く独特な工合にまつ毛のところが美しい二つの眼が浮んではなれません。光線の工合で何とくっきり面白く見えたでしょう。
二十八日
こんにちは。ちっともお早うではございません、もう十二時五分前よ。勿論只今御起床というのではなくて、きのう咲が立つので大乱脈のままになっていた台所を一時間ほどまとめて働き、その前に小鳥の世話、犬の御飯、胡瓜とニラの芽の見物をしたわけです。
いつもこうなのよ、咲が来ると実にゴタつき、帰って国がいなくなると、私は長大息をついて次の朝なかなか腰があがりません。可笑しいのね、主婦が帰れば却ってよく片づいて単純になりそうなものなのに、決してそうゆきません。国はわたしとの暮しではいろいろ辛棒して書生っぽにしているから、愛妻御帰館で、気持の要求がぐっと殖えるのでしょうね、食事にしろね。それに咲の来ている気分にしろ、察しのつくところもあるわけでしょう、だから何だかごたごたになってしまうのよ。わたしだったら、と思うから、ごたつきについては敬意を表しておくの。だって、そうでしょう? 眼が一つのものからはなれやしないでしょうと思います。オヤ、見なくては。おひると朝けんたいの、メリケンコの妙なものをやいているのよ、ストーヴのところのガスで。こうやって書き乍らやくと急がないから、きっとよく出来るでしょう、どれ、どれ。
成程成功よ、大いにふくらんで狐色になりました。これは、その昔ホットケークと呼ばれたものの同族ですが、牛乳ナシ、玉子ナシ、バタナシ。ナシナシづくしのふくらし粉一点ばりのやきものです、さとうナシですしね。でもふくらめばいいわ、にちゃつかないから。
鏡で見たところ、きょうの頬っぺたは、きのうより幾分ましになりました。きのうかえりに見たら、まだ洗ったり薬つけたりしなくてはならない由です。どうしようかと考え中です。抜いたところ二本ブリッジになります、そのために一番奥のいい歯の神経をぬいたりけずったりしなくてはならないの。金をかぶせたところで、又いたんで、又その歯をぬくなんてやりきれないと思います。そのギイギイ仕事の最中に、一ヵ月以上かかりますから、ドカンドカン来て、歯は放っておけない、にもかかわらず御入院なんていうのは閉口よ、十中八九までは、そうなりそうです。そうなると思って万端やることにいたしました。咲もいず、(役に立たないけれ共)寿もいず。歯まで心配の種ではやり切れないから、もしかしたら秋ぐらいまでこのまま歯かけでいようかと思います、こんなこと迄相談されて
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