。自転車にのれたらと思います、でも目が不確かで速力が不安なうちは駄目ね。
 あなたが家事衛生のこと、おっしゃっていましたが、こんな実習[#「実習」に傍点]がはじまろうとは思って居りませんでしたね、お互様に。こうやって見《いて》てつくづく自分もいろいろの生活で、こなせるようになって来ていると感じ直します、つまり苦労して来たのだな、と思いかえすようなところがあります。そしてそれは自分の実力ということで感じられるのはうれしいと思います、女中がいない、忽ち上ずってしまう、という生活力では情けないわけですから。でも心もちは意地わるいものね、こんな暮しがはじまると、何と勉強したいでしょう、じっくり腰をおちつけて物もよみたいと思う気が切々です。それが困るが、大体からいうと、人的交渉から苦しい刺戟を絶えず得ているよりも、この方が体のため[#「体のため」に傍点]には悪くないかもしれないと考えます、体がこの位くたびれると机に向って根のつめる仕事は出来ません、読書にしても、これが永続しては、やはり私として本末の顛倒した生活ということになりましょう。国の方は防衛局の仕事がなくなると同時に事務所もとじる計画らしいし、仕事のなくなるのは防火壁をこれからこしらえたってはじまらないという時期が来ればすぐなのだし、どこもかしこもそんな風な日暮しですね。
 寿は長者町に落付く由。それがいいでしょう、わたしがこんな暮しかたをするようになったら、長者町に落付く決心をして、なかなかこまかく考えを運んでいると思いますが、私として、当てにしていないのだから、結局落付いてくれる方が安心です。姉のこころ妹知らず式のところもあって。わたしは一家の中で殆ど術策を弄さない唯一の人間よ、生活の運びで。私のよろこび、わたしの苦痛、わたしの貧乏、それは天下御免で大っぴらで、弄すべき術策を必要といたしません。それは今日にあって大きい幸福です、自分の性根をこの間《カン》に腐らせないでゆける道ですから。Sが人相が変り悲しゅうございます。抜けめないところばかり出ている顔して歩いていて、往来で会って、その人と思えないようでした。ダブつき条件でだけ出来ている鷹揚さ、ひろがりなどというものは、何と急速にはげてしまうでしょう。気くばりと抜け目なさだけの顔してむこうから歩いて来るSを見ると、胸がいっぱいです。あのひと鏡もってるのかしら。人は折々
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