子にくくりつけんばかりにして動くのをいやがったのですって、モデルが。あのひとの絵を見ると、しかし実に絵は動いているわ。ドガは描かれたものがそのものとして動いているが、セザンヌのは、画家の目、見かた、制作意慾が熾烈で、精神が音をたてて居ります。こっちからこれだけぶっつかるからには対象がひょろついていられてはたまりますまい。対象につよく、直角にぶつかっています。古典よんでいて、対象へぶつかり、きりこむこのまともさを今更痛感し、夜枕の上で考えていたら、セザンヌがはっとわかったのよ。むかしの人の禅機と名づけたところです。(思いつめよ、というのは、そこまで追いこんで、直観的に飛躍せよということなのですが、人物の内容が時とともに充実しなくては飛躍もヤユね)セザンヌの生きていた時代にはそうして対象を金しばりに出来たけれど、そして、そういう対象を描いていられたが、今どうでしょう、とくに作家として。どこで、何を、どう金しばりに出来るでしょう? おどろくほど沸りかえり流れ走るものを、その現象なりに描き出し、それが、現象[#「現象」に傍点]であることを芸術としてうなずけるほど、一本の筋金を入れるのは何の力でしょうか、ここが実に面白いわ、ね。
 十三日の手紙で、科学の精神のこと云って居りますが、ここと結びつくのよ。こちらの洞察、現象の意味、有機性、そういうものに対する芸術家の力量だけが、現実を、それがあるようにかけるのでしょう、だから面白いわね、勉強に限りなしというよろこびを覚えます。ストック品などでは役には立たないのよ。用心ぶかく、軽井沢辺で、芋でもかこうように作品をかこって繁殖させていたところで、芋は遂に芋よ。だってそれは芋が種なんですもの。家というものは、藤村が或程度かきましたが、又新たな面からのテーマです。ああいう「家」のように伝統の守りとしての継続の型ではなく、それが変り、くずれて、新たなものになってゆく過程で。では明日ね。

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[自注6]眼が十分でない――一九四二年の夏、巣鴨拘置所で熱射病で倒れて以来、視力が衰え、回復しきらぬことをさす。
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 三月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 三月二日
 きょうは又ひどい風が立ちます。春はこれでいやね、京都はこんな吹きかたをいたしません。島田辺もそうでしょう? 風がきらい
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