ころというものは、おろそかに外に洩らされない感動のそよぎに充たされるとき、それは響きにみちて鳴らずにいられません。きょうのおよろこびに一つのタンボリン(羯鼓)をさしあげます。それはわたしよ。手にとってつよくうてば、その羯鼓はよろこびに高鳴るでしょう。指にとってやさしくうてば、羯鼓は懐のなかで鳴くように、肌にそって長く鳴るでしょう。膝の前において見ていらっしゃれば、羯鼓は見られることをうれしく思って自分も飽きずみられているわ。決して退屈しない羯鼓をさしあげます。おまけにその羯鼓はおてんばもすきで、もしあなたが機嫌よさにちょいとえりをつかんでもち上げたり、ころがしたりなされば、毬にもなってお相手いたします。枕につけて寝れば、それは夢の中にうたうでしょう。
 わたしのほめ歌の主題は、一本の樫の樹です。一本のすこやかな樫の若木が、草萌ゆる丘の辺に生い出でました。春の淡雪は若枝につもり、やがて根に消えて、その養いとなりました。夏の白雨は、靭《しな》やかな梢にふりそそぎ、一葉一葉に玉のしずくを綴って、幹を太らす助けとなりました。春秋いく度か去来して、今仰ぎみるその樹の雄々しさはどうでしょう。枝々は逞しく左右に張って、朝の日と夕べの月とに向って居り、梢は空にひいって、星を掃きます。鬱蒼とした枝々に鳥どもは塒を見出し、根の下草には、決してこの樹をはなれない一本のすいかつらも茂って居ります。樫は壮年の美に溢れるばかりです。すこやかな若木であったその樫は、この地上の誇として堂々たる壮年に達し、自然と人間をよろこばせます。ジュピターという神を、ギリシア人は意地わるもする神として考えました。自然力は横溢して、人間の都合をふみにじりもするからなのでしょう。
 ところでこの樫を、天なる神は非常にいつくしみよみしているにかかわらず、折々|霹靂《へきれき》とともに、おそろしい焔の閃光がその梢や枝におちかかります。その光景のすさまじさは、あわやその火の中に樫も根元からやかれたかと思うばかりです。しかし、雲が去り、風がやわらかく流れて煙を払ったとき、見れば樫は見事にその枝々をひろげてやっぱり堂々と立って居ります。只よくみると、一つの霹靂を耐え経るごとに、樫の枝と幹とは次第次第に勁さを増し、樹皮の創さえその成熟の美観を加えるばかりです。自然神は、その天性によって、いつくしみ、抱擁しようと欲するときにも、
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