一つと新しい景観にふれてゆく新鮮さは、日本の春独特の美しさでしょうね。北欧には秋の霧の哀愁ある美がありますけれど。
この間、それとは別ですが、短い詩で「丘かげの泉」というのがありました。どこか連関あるような感情の詩で、それは狩人と泉の物語りでした。狩人が、獲物を追って足早く丘をのぼって来ました。ゆるやかな丘の斜面のどこかに、小さい獣はひそんでいます、やがてカサとかコソとか葉を鳴らすでしょう、待つ間に狩人は喉の渇をいやそうと、精気美しい眼をうごかしてあたりに耳を澄せつつ湧き水のありかを求めました。どこかで淙々とした水の音がするらしいのに、目にふれるかぎりの叢に泉は見当りません、狩人は若々しい額の汗を手の甲で拭い、何となし逸《はや》っている生きもののような眼つきをします。泉は泉で、出来ることなら、自分の姿を日光にキラキラ燦めかせて虹と立ちのぼり、自分のありかをしらせたいと思います。泉は、ついそこのもう一つ小さい丘のかげの草の下にゆたかに湧きあふれ、滴をもって流れているのでした。人間の視線が、丘の折りたたまれた曲線について、折れ曲って泉を見出さないということを、泉は残念に思います、そして、もう伝説の時代が人類の生活から去っていて、泉から白衣の仙女が立ちのぼり、狩人をうっとりとその泉まで誘いよせて、その縁にひざをつかせることもなくなっているのを、葉かげの泉は歎息しました。
一枝か二枝の八重桜の下で、この物語をどんなにお味わいになるでしょうか。讚美歌の中に、渇いた鹿が谷間に水を求める姿をうたった調子の高いのがあって、すきでした。シムボリックに求神を云っているのでしょうが、雅歌が極めて感覚に生々としているように、この歌もほんとうに生きるものが水を求める渇き求めを歌っているようでした。渇望という字は、人間の率直な表現ね。しかしそれを純粋に感覚する大人は少いし、それをまともに追う人も少いのは不思議です。そして、おどろくべきことは、気力を失った精神には渇望が決してないということ、ね。
今何時? マア、もう七時半よ。かき出したのは六時よ。きょうは又うんとこさ早くお眠りブー子をやります、そして、あした気持よく歯イシャを辛棒し、野菜袋をブラ下げ、そして、いいこと思いつきました。あさって、もしかしたら、朝のうちに駒込病院へ行って、外科の先生に紹介してもらって、いつか多賀ちゃんが、ラジウ
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