ャグニャしたのをきらったというのもよくわかります。表現とジェスチュアとの区別、見さかいを失った鈍感さ、として。崇拝者の一人であるレオ・ラルギエーという人は、そのさわられぎらいのセザンヌが自然にその腕をとったりして歩いた唯一の人物らしく、ラルギエーは、それは自分がごく注意して、自分がセザンヌにさわることをよけていたからだろうと云ってかいています。そしてさわられぎらいを些かシムボライズして、それはセザンヌの一生の芸術家としてのひとからさわられぎらいを示したものではなかろうかと云っています。セザンヌの偉大さというものの稚朴さを考えます(そういう態度の歴史性を。自己というものの守りかたの表現として)セザンヌは若いときゾラと親交があったのよ。ドルフュスのとき、ゾラがロンドンへ行ったりしているときセザンヌは、あいつは相変らず気ちがいだと云って田舎に引こんでいました。ドラクロアが、ロマンチック時代に生きた生きかたとは大ちがいでした。しかしながら彼は彼なりに本ものだったのね。
 隆治さんにクルクル巻の雑誌三四種とりまぜ送り、手紙も出しました。南の方は手紙その他不便らしいのね、ついたらよいと思います、せ
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