いました。あの小さい方の男が、気やすめとはっきり知って気休めを云っているところ、しかし大男や黒坊や掃除夫は、シニカルな気持の半面で真実それにひかれているところなど、ヒューメンな味が感傷でなく在って、あの一束の人たちの作品の特質は主としてそのところに在ると思われます。彼は物理と生物学の勉強をしているそうです。文学からそちらにゆくのは、そちらから文学に来るのと全然違うというのは本当で面白いことです。科学と法則を、彼のような作家が学びたいと感じるのも分るし、『廿日鼠』の大男のような自然力を感じる作者が生物学というところに立ちよるのも判ります。それが過程になるか終点になるかということで、彼の文学の可能も亦かわって来るわけでしょう。
 オニールのようにあっちにはああいう自然力を人間の運命のうちにつよく感じる作家が出るのね。ロンドンやホイットマンもそうですし。新しい生活力が、或ときは悲劇的に横溢するからでしょうか。
『文芸』は六十数頁の小冊子となりました。苦心して編輯していますが、作家は二十枚とまとまったものをのせ得ていません。多くの課題がこの一つの現象のうちに語られていて、作家がジャーナリズムの刺戟で仕事して来た習慣への痛烈な報復がひそんでいます。
 どんな人も従来の1/6ぐらいの収入でしょう。プルタークはもう忘れています。クレオパトラの引力史[#「引力史」に傍点]という表現は笑えました。ショウは利口なようで浅薄な爺さんね。クレオパトラの鼻がもうどれだけ低かったら世界史は変ったと云って、どんな猪口才にも記憶されましたが、クレオパトラがそれをきいたら、ジロリとショウに流眄をくれてニヤリとして黙っているでしょう。鼻の高さひくさぐらいクレオパトラの本体に何のかかわりがあるでしょう。彼女はおそらく女性中の女性だったのです。ナイルをみなぎらす太陽にはぐくまれ、あたためられ、そしてそれを装飾して表現する立場をもっていたのです。装飾に眩惑されるぐらい英雄たちは或面魯鈍であり、自然の魅力に抵抗しかねたほど素朴でもあったわけでしょう。それにあの連中はみんな派手ずきな連中だったからね。どんな時代にも派手好きな人間というものの共通に担うめぐり合せはあるものです、プルターク先生はそこ迄見とおしたでしょうか。随分変転を重ねて其は現われる、例えばレオン先生の晩年のなりゆきの如く。
 私は目下のところは余
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