す。あの時分は父が生きていて、私は母ののこしたものを自分で自由に出来ず、又どの位あるものかも知りませんでした。母の亡くなったとき父が三人を呼んで、母ののこしたものは子供たちに等分するが、一番能力のない寿江子と、いろいろ責任もある国男にやや多くして、自分の存命中は自分が保管してその収入も自分で自由にするから承知しているように、とのことでした。だから私が牛込居住のころは、私の方も全くお仕きせで、私は二人分だからと自分も随分きりつめて暮したものでした。十月に栄さんから行ってそれきりだったということは、はばかるとかはばからないとかいうことより、私にも分らないけれど、単純にあなたがまあいいとおっしゃればいいんだろうぐらいのことでいたのではなかったでしょうか。あの時分は考えるとひどかったことね。一ヵ月に一度ぐらい咲枝が一寸来てウワウワと何かきいて、あなたの方大丈夫かと念を押すといつも大丈夫よちゃんとしている、と云って、それで帰ってみればそういうことだったのですものね。あの頃は咲枝夫婦は部屋住みの無責任さがあり、寿江子はこちらのことなどかまっていず、今度とは本当に比較になりませんでした。
 父が急逝し、国男は俄に家と事務所を背負ってすっかり神経質になり、寿江子も境遇の激変から妙になって、兄を不信し、そんなこんなで私は帰ってからも相当でした。あなたとしては、うちのものに対しては、まあ何とかするからと仰言るのは分っているが、しかしというとこまでは決して心の歩み出さない人々だということを痛感し、それで、父の死後私の名儀のものが自分のものとなったとき、全部手ばなして又あのあいまいな、わけのわからないいやな思いをしたくないと思ったわけでした。
 必要な場合役にも立てないで、つくねておくようなら持たないにしくはないと、あなたはお思いにもなったのでしょうね。私は自分があんなにつめて心配していたのに、うちの連中は何ていう底ぬけかと思う心がつよくて、時期のくいちがいを御承知なかったあなたの方で、そんなものがあったのならとお思いにもなっただろう事情を心持として分らず、黙ってのこしておくこととなって、行きちがいをおこしたのでした。
 考えてみると、暮しのやりかたが本当に拙劣であったと思います。しかし前の時は私はやっと原稿料で生活していただけで、その日ぐらしで、自分のいなくなったときの考慮まで出来ていな
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