して歩いてもらいましたが、布ではった煙草入れと云うものさえ無くて、途方にくれ、昔から私が持っていた浮世絵の本から北斎の「冨士」と、歌麿の少女がラッパを吹いているあどけない傑作とを切って、経師屋でふちどりをさせ、壁にはれるようにして送りました。もう何年もあちらにいれば、浴衣の紺と白とがなつかしいように、日本の色調が気持よいだろうと思って。今にまた何か考えて隆治さんにも送りたいと思います。でもあの人は食物をはこんでみなの為に島からしまへと動いているのではないでしょうか。そう云う間にも一寸出してみれば気も慰むと云うものは何でしょう。今の処、知慧はまだ出ません。締切りなしの執筆と云うこと。この頃のような時間の使いかたを私は命がけで吾が物にしているのだから、底のそこまで味い、役に立て、自分の成長をとげなければならないと思っています。これ迄も小説は一日七枚以上書けたことがなく、一夜で書きとばすと云う芸当はやったことが有りませんでした。然し、矢張り時間にはせかれていて、書く迄のこねかたが不充分だったり、書きつつある間の集注が妨げられたりしたことはあったと思います。この数年、それ迄は知らなかった時間的な緊張のなかに置かれて(心理的にも)今、こうやって体のために仕事を中絶までしていると云うことは、決して単なるめぐりあわせではありません。
 スエコが目下開催中の明治名作展を見て来て、其処にあるものは、絵にしろ、彫刻にしろ、この頃出来のものとはまるで違って、観ても見あきず、時間をかけてみればみる程値うちが迫って来ると云う話をきき、初めて自分の外出出来ないことや、物のみられないことが口惜しく思えました。そこの事よ、ね。その奥行きとこく[#「こく」に傍点]とは何から出るでしょう。作者が自身のテーマに全幅の力を傾け尽し、何処にもはしょらずテーマの要求する時間の一杯を余さず注ぎこんでいるからこそで、一寸した絵ハガキを見ても当時の人がテーマと題材に就てどんなに真面目に考えて居たか、一つも思いつきではなくて追求の結果であると云うことを明瞭に感じます。スエコが日参するねうちがあると云ったが、それは本当でしょう。性根に水を浴せられる処があるに違いない。二十八日で終ってしまいました。
 絵描きでも作家でも注文としめ切りがなくて、チャンチャン毎日何かを造り出してゆくようになれば、恐るべきです。名作展をみても
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