せ」に傍点]、出来ている、あれとこれとのとり合わせ、つまり趣味というところで止っているのですものね。そして其は金で買えるものに多くつきています。
 私がここに暮して、段々馴れて、女の人たちが、自分を出して来て、それで痛感するのよ。素質の悪くなさなどというものは、何と其自体ではたよりのないものでしょう。日常の弛緩した生活は、目にも止らぬ、而も最も本質的なところをドンドン歳月とともに蚕食してして[#「して」に「ママ」の注記]ゆくものなのね。若かったときの無邪気なよさ、善良さなどというものは、年を重ね、知らないことは知らないままに止って、つまり無智なまま、そこの生活にある癖に沿って厚かましさや口先だけや無関心を加えて行くのね、あなたが、折にふれてはあきず反覆して、素質はそれを展開させる努力のいることを書いて下すったわけだと思います。実にそれを思います。素質の浪費ということは音を立てないから日常心づかないが、もし其がプロペラアのような響を立てて警告してくれるものなら、目も口もあいていられぬという状態でしょうね。人は何と自然の生きもの、謂わばけものでしょう、自分の一生が二度とないという、こんないとおしい愛惜してあまりある時間の枠に規正されている命をもちながら、ほんとにのんきに、無内容に、動物としての命の動きのままに動かされて、大ボラをふいたり、大ウソをついて威張ったりして、動物のしらない穢辱と動物のしらない立派さの間に生き死にしてゆく姿は、何と滔々たるものでしょう、その滔々ぶりに、人間万歳の声を声を[#「声を」に「ママ」の注記]あげる人もあるわけでしょう。そして又、人間だけが、現実の大きな虚偽の上に、真心からの感激と献身をもって死に得る可憐なるものです。逆にいうと、人はどんな人でも、命をすてるときには、その命に、自分で納得し得る最大の価値を感じて死のうとするいじらしい、人間らしいところをもっているのね。無駄に流れて来た時間の或る瞬間、駭然として無駄であり得ない死を感じる人間の心は、非常に私たちを考えさせます。そういう瞬間に会わないと、活《カツ》の入らないような心で、作家たちさえも生きて来ていて、そういう瞬間の自覚を人間性の覚醒、生の覚醒という風に感傷するのね。昔、川端康成が、北條民雄の癩病との格闘の文学を、ヒューマニズムの文学、生の文学と云って、私は川端の甘さを不快に思った激
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