境遇というものから脱すことは出来ず、その改善のために腐心するのですが、そればかりで人生の意味はつきていないということを考えさせる点で深い意味をもっていると思いました。よく境遇にうち克って云々というとき、何か常識ではその悪条件を廃除しきったようにうけとるけれど、現実にはそうではないのね。決してそんな生やさしいものではなく、雄々しい狼のように一つの足にはワナを引きずっても行こうとした地点へ行ったということなのね。シートンの「動物記」にロボーというメキシコの荒野の狼王の観察があります。すごく智慧が発達していて、どんな毒薬もワナもロボーをとらえません。が、シートンが見ると、いつもロボーの大きい足跡よりちょいと前へ出ている小チャナ足あとがあって、それが妻のブランカだとわかるの。白をブランカというのね、純白の非常に美しい牝で、牡狼ならロボーが命令を守らないとかみころすのに、ブランカには寛大です。
 シートンは、そのブランカを先ずひっかけました。ロボーの慟哭の声が夜の野にひびきわたります。ロボーはブランカを可愛がっていたのよ。シートンの動物の知慧も私から見れば憎らしい。ブランカの体をひきずってワナに匂いをつけます。ロボーは泣きながらブランカの匂いをさがして来て終にそのワナにかかります。シートンはさすがに首を〆めてしまえないで、そのままワナからはずして縛っておいたところ、自分の君臨していた荒野を見守ったままロボーは人間を見向きもせず、王らしい終りをとげます。シートンはロボーの顔をスケッチして、その日にデューラーの版画みたいに王冠をのせ、RoBo 何とかラテン語書いていますが、このシートンという男はアメリカ人らしい生活ぶりで、或地方の賞金つきの野獣狩りなんかにも出るのね、ロボーには一千ポンドの賞金がついていたのですって。
 私はシートンの話はいつも面白いが、こいつはきらいで悲しいわ。ロボーのために悲しみます。そして一層ブランカのために身につまされます。こんな賢い野獣でさえ、その智慧の最上の点で牡に及ばないという自然のしわざを悲しみます。ブランカは好奇心がつよくてロボーが止れと命じて一群が皆止ってもチョコチョコロボーの先へ出たり横へ走ったりして悲劇を招くのよ。ブランカのひっかかったのはロボーがちゃんと警告する本道の上のワナではなくて、わきの草むらに何気なくころがされていた牛の頭の一つで
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