とお笑いでした。でも私は、もっと円くなる予定ですし、そうでないと十分の体でないのだから、見合わせて頂きたいと笑いました。おとしよりの方は、私の円いのに心ひそかに恐縮していらっしゃるのがわかって全く可笑しい。わたしが、ハアハア笑って、一向結構という風で円くているから、苦情も仰言れなくて、何とお可哀そうなことでしょう(!)おや、雨が降り出しました。もう五時近いからおつきになったでしょう。下北沢でおりるのですって。
 珍しいお客様でお話がこまごまとしているから私は疲れました。それでもいろんな噂が珍らしくてこの手紙さしあげます。大阪の明石さんでなかったから大助りよ。まともな配給で毎日暮している人でなくては話にもなりませんからね。それでも軍人さんだから世間にないカンヅメが買えるというのでおみやげに鮭のカンヅメ頂きました。この頃一般の人はこんな大きい円切りの鮭カンなど見たこともありません。
 昨夜はヴェルハーレンのかいたルーベンスの伝記、活字が大きいので読んで面白うございました。ルーベンスの偉大さと美しさと無意味さが公平に見られていて、この詩人が一方でレンブラントを書き、優れたレンブラント伝とされているのも興味があります。ルーベンスの浅薄さとよろこびの横溢を理解してその対蹠的芸術家として真の大芸術家としてレンブラントを書いているのです。
 白樺の人たちがレンブラントを紹介し、日本ではゴッホとレンブラントは云わば文学的に崇拝されています。しかし、レンブラントにせよゴッホにせよ、そういう崇拝は、自分たちにないものへの安易な崇敬として評価されているのでしょうか。自分たちの可能の典型として愛し尊敬しているのでしょうか。私はよくこの疑問を感じます。煩悩の少い、テクニカルなことに没頭したり、フランス亜流に彷徨したりしている人々に、どうしてこういう芸術家たちが、体と心をずっぷりと人生の激浪の底につけて、そこから年々のおそるべき鍛練によって我ものとつくり上げて来た芸術の不動な真実をしんから理解出来ましょう。ベルハーレンが、レンブラントの描く人間はいつも窮極においてのっぴきならぬ情熱のどんづまりにおいて描かれている。決定的なものだが、ルーベンスなどはそういう人間のつきつめたもの、その真実、そういう永遠性はちっともないと云っているのは本当ね。ルーベンスの画集は裸体であふれていて、それを切りとったら
前へ 次へ
全220ページ中80ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング