で、私たちは始終大きなお腹に横目を使っています。今度私が病気したことは、この人にとっては案外なもうけもので、一緒にBや心臓の薬を注射したため、母体の条件が大変よくなってきているそうで何よりです。今は皆自信を持って安産を考えていますが、夏頃はひどくうっ血した顔をしているし、苦しがっているし全く心配でした。五月頃聖路加へ通っていると聞いて私は困ったことと思い、しかし自分でよりよいところを紹介できないし、さて今度はどうなることかと思っていたら、私の先生から近所のよい医者を紹介され、命拾いしました。始め羊水が多すぎると言って食物制限をして、バターを食べさせなかったところ、小鷹さんに診せたら心臓が丈夫でない為、うっ血してガスが発生し、その為お腹が人並より大きいし、全体むくんでもいるというわけで、勿論バターなどは是非たくさん食べた方がいいしという話で吃驚《びっくり》した次第です。聖ロカの医者にはそういう致命的な問題がちっ共みえていなかったのです。私の命と一緒にもう二つ拾ったので、それというのもまず私が死んだからで相当感謝されています。私は今、回復期のきわめて滑稽な状態で、自分の疲れ方が見当がつかないところがあって、どの位まで動いたら気持よく眠れる程度に疲れるのかわからないでまごついています。どうもボタンなんかをみつめて目玉をくりむくと、てき面にひどく疲れて工合悪く、昨日などの様にいくらか人足めいた品物を動かすような仕事は、細いものをみないために案外疲れません。つまり眠れるように疲れるのです。当分これでは人足ね。でもうちはそういうことをする人がなさすぎて、どこもかしこもうず高いから、ポツポツ女中さんを助手にして、ごみ片附けは細君にとっても歓迎です。気持のよい疲れ方というものを求める気持が強いにつけ、好ちゃんがいたらどんなによかろうかと思います。元気ながら持ち前のおもいやりでいたわられながら歓談したらきっと人足仕事などを心がけないでも、もっともっと詩趣豊かにほっこりするでしょうのにね。
重い病気から回復してゆく間のこういう感情は、私として始めての経験です。あなたはきっとこの数年の間に十分お感じになっていたことでしょう。でもあなたのその時期に、私はちっ共そんなことは知りませんでした。今はそれがわかります。何にも言わずにあなたはそういう時期もお暮しになりましたね。言われてもわからなかったかしら。私の爪の真中に一本横にひどい窪みが現われました。爪が伸びてきて三月前死んだ時の線が真中まで押し出されてきたのです。チブスをやってもこんなことはないそうです。「ひどかったんですなあ」と先生が感服致します。賀川豊彦でなくても死線が現われました。
あなたがひどくお悪かったあと、髪がうすく軽くなって、向い会っていると頭の地がすけてみえて本当に吃驚したことがありました。絞りの着物を着て、やっと歩いて出ていらしてお腹を落して椅子にかけていらした時分です。日本画家が幽霊をかく時には、必ず頭のぐるりをぼかして少しはなして、ポウポウとした毛を描きます。それがどんなに実際に観察にたっているかということが沁み沁みとわかって、あれを思い出す度にああよくも命が助かったと思いますが、今の私は爪に死線が出たとおり髪もピンチです。いささか亡者めいています。まるでチョロリとしたしっぽを下げているきりで、いかに私が楽天的な妻でも、頭に毛が十本というのではお目にかかりにくいわ。
来年になって眼の方がちゃんとしたら、髪の毛もせめて普通までこぎ戻るように太陽燈でもかけます。これは眼に害がある光線だから目下は御心のままに[#「御心のままに」に傍点]抜けているしかありません。
芸術家と日常生活の関係は全くここに言われている通りです。文学は生活感へいつも立ち戻るところがあるけれども、音楽や絵は一定の技術上の習練がいる為に、そこに足をとられて女の人などは殊に危っかしくなり勝ちですね。
この頃私は人々の向上心というものについて興味ある観察をしていますが、(ついてはページをくってみたところ、もう十枚目だからこれは次便にまわします)
富雄さんのところを光井へ聞いてやりましたが、そちらでこの次の手紙で教えて頂きたいと思います、古いのしかないから。
来年は島田のお母さんが六十一におなりでしょう? 私達にとっての六十一はそれとして祝う意味もないが、お母さんはやはり還暦ということをお考えでしょう。普通は赤い座蒲団などを送りますが、そんな形式的なことは元気なお母さんに失礼ですから、何とかやりくりしてお気に入りそうな着物を一揃え上げたいものですね。御賛成でしょう? 島田へ二三度行くところをやめれば何とかなるかも知れませんね。くわしいことはまた何れ。今日も秋日和です。
十一月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込
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