んは本当にいくらか遅れるかも知れませんね。然し正月はこちらでさせてやりたいものです。私が外を歩けるのは来年の秋頃でしょうが、その頃までにどんなに世間は変っているでしょう? 去年の十二月から今日までに三段位に変ったそうですから。二年こもって暮すと仙人めいてしまいますね。でもね、世界を理解するという力は、あながちそれで苔が生えてもしまわないからいいけれど。では今日はこれでおしまい。マッサージの人が来ましたから。

 十月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 藤島武二筆「ベラデスタの池」(一)[#「(一)」は縦中横]と「ベルサイユ」(二)[#「(二)」は縦中横]の絵はがき)〕

 (一)[#「(一)」は縦中横]あーちゃんが二階上下することは、もう九ヵ月の体によくないので私が上に移りました。殆んど十一ヵ月振りでみる二階は、荒廃のあと著し、という工合です。ペンさんに手伝ってもらって、居る方の部屋だけどうやらまとめて臨時の机でこの葉書を書きます。家のように満足な体の人が居ないところは、めいめいが自分の体にかまけて、つまり一番普遍的に気のつく人間が病人になっていられないような可笑しい按ばいです。それと戦ってせいぜい安静を心掛けて居りますから。この絵に色が見えたらどんなにいいでしょう。光と音楽とが感じられますね。ドーデーの小説の中にこういう甘美というような描写がありました。小さい作品だそうだけれども、どこへ出しても大丈夫という格のものだそうです。今日寿江子さんが行って小夜着の話、わかりましたかしら? 夜は綿の入ったものがなつかしいわね。

 (二)[#「(二)」は縦中横]この秋はこの老大家の絵が中々見物であったそうです。眼がみえなくなって手もきかなくなったこの画家が新進大家のお弟子達にかこまれて自分の仕事の並べられた室を歩いたそうです。絵画きが眼がみえないでは私と比べものにはなりませんね。光線よけの暗緑色のレンズが出来ました。それをこの眼鏡の上に取りつけるのです。バネが工合よく伸びて小さな爪がふちにかかります。曇天世界になります。あまり愉快でないので今も幾分チカツきながらつけていません。(叱られるかしらん?)この絵の左手が有名な大噴水と美しい森です。右手は石段の下がオレンジ園です。

 十月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十月五日、夜。
 これをペンさんが居る内に書いてもらおうと思って、やっこらやっこら二階へ来たらば、きれいにした四角い台の上に思いもかけず菊の花が朝鮮壺に活かっていて、「まあ、きれいだ」と嬉しい声をあげました。寿江子がそちらの帰りに買ってきてくれていたのでした。この菊の花の下には、小さい徳利形の水差し(硯に水を入れるもの。水滴だわね)と一匹のひどく間抜けな顔をした水色の縞の熊が辷りそうに足をひろげています。このシャツの余り布で作られたような縞の熊は鼠が太ったような丸い耳ととんきょうな顔をしていて、私は縞の布で作った動物は好きでないからと寿江子さんが安心して袋から出したところを間抜面の故にすっかりひいきにして御愛物にしてしまいました。
 オリザビトンがこれから二ヵ月もあるというのは心強い話で、その内又ペンさんに三共あたりへ行ってみつけてもらってみましょう。あとから言った薬もみな内国製ですから、そう急になくなるということはないでしょうが、オリザビトンがなくなるとすればあやしいものですね。ただ後のはBとCと独立ですから、相当続くだろうと思いますが。調べておきましょう。多賀ちゃんのことは、また勤めたということは知りませんでした。この間は家にいて退屈だという手紙をもらい、こちらからは広島の逓信病院長を紹介してもらい、調べる要点も言ってやっておそらく勤めるのと行き違いについたのではないでしょうか。辞めるのにあんなに骨を折って口論までして辞したというのに、私にはおしい気が致します。気分の動揺していることも察しられます。そういう気分だとあの単調な国府津で、単調な私との生活を穏やかな気分でして行かれるとは思えませんね。多賀ちゃんが目白にいた時代は私の大忙しの時代で、ああいう活気はこの半盲さんには望めませんから。近い内に様子を聞いてやりましょう。夜がうっすらと寒くなって、去年十七日に皆んなが菊の花を胸につけて遊んだ晩を思い起します。今年はどんなことをしましょう。寿江子は今日、お話ししたようにどこかへ行きます。私が脇でだんだん回復してくると寿江子の様な長年の持病持ちは神経を変に刺激されて反感を感じるのだそうです。自分の体の悪さばかり痛切に感じるのだそうです。疲れたことも疲れたのだし、私のとこの横に終日ついてその気分であれこれ刺激を受けるのも切ないしするから、ひと苦面をしてともかく暫らく気分を変えさせます。私の
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